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第十三話 初恋のとば口
綾瀬視点
遠い夢のような思い出を瞳の底に残して、綾瀬はため息をもらす。
ここまでは、どこにでも起こりうる青い春。二人の仲は深まり、隣席同士仲睦まじくなるはずだった。そうなるはずだった。はずだったのに、青春迸る三十一巻のなかに、「生徒会長は平凡くんがお好き!」が紛れていた。
それからだ。晴斗に積極的にアプローチをしかけようとするが、漫画の返却から上手く声をだそうとすると喉元で絡まって消えてしまう。向こうも避けているのか、視線をそらされ前の席の幅より、綾瀬との机の幅は三センチほどひろがってみえた。
猛る想いだけ拗らせて、陸上と顔だけで培ってきた人脈を発揮し、晴斗の体重、身長、伸びなやむ成績、家族構成を調べ上げた。そして、好きな人が家族となったら……など淫欲の妄想を膨らませた。想像するだけならだれも咎めはしない。だって、これは。これはコイだ。そしてこの恋は……。
……初恋。初恋は叶わない。
綾瀬はもつれた足取りで自宅の部屋へと帰路につく。ベッドへ鉛のように重たい体を投げだし、瞼をゆっくり閉じた。きょうも晴斗とろくに会話すら交わせなかった。絶望と後悔しかない。
『弱虫は幸福までおそれるものです。綿で怪我をするのです。幸福で傷つけられることもあるのです』
かの太宰治もそう言い残す。仕方がないことなのだろうか。
紙の上では迸る愛液をしとどなく垂らすことができるのに、綾瀬は自分の無力さを思い知る。自分が御曹司で超高層マンションに住んでいたら、いや、超優秀で冷酷な生徒会長でいたら……。
ちなみに綾瀬が属するフージョ学園の生徒会長は藻部 太郎 である。眼鏡を外しても普通のモブに徹する男なので以下省略とする。
――くそ! 全然上手くいかない!
綾瀬は数少ないマイバイブル、世界名人名言集をベット横のサイドボードから一冊手に取る。
どんなにかなしい涙でも
いつかは乾くときが来る
……ミヤコ蝶々
いや、違う、もっとあう言葉が欲しい。
ハングリーでいこう。
……シートン
これだ!
まずは腹ごしらえだ。腹が減っては次回作のプロットすら練ることすらできない。
綾瀬はリビングに足を運んで、夕食をとろうとした。居間はテレビの騒々しい音が広がり、キッチンでは母親がパスタを大量に茹でていた。
「母さん、またパスタかよ」
「しょうがないじゃない。たくさん買っちゃったんだから」
コンロの上でゆらゆらと湯気を立てる寸胴鍋に綾瀬は毛虫のように眉を尖らせる。ちなみに昨日は高菜パスタだった。その前はたらこパスタ。なんでも近所のトミトミスーパーでパスタの特売が続いていて、母のカズエは散歩がてら怒涛の勢いで駆け込んでは買い過ぎたと落胆している。我が母親ながら、進歩のなさに呆れてしまう。
「しかも、みどりの奴、テレビ見すぎじゃないか。またワンワンみてるし」
「じゃないと、ご飯作れないのよ! ほら! あんたも手伝いなさいよ! もう! 部活辞めてから部屋に篭っちゃってへんなモノ書いてるるんだから!」
ぶつくさと文句の言う母親を横目に通り過ぎ、リビングのソファに腰掛けると、座高の高い固定テーブルから妹のみどりがワンワンを指差ししていた。
「わんわん!」
「あーはいはい、わんわんね」
視線を投げると高速ステップで踊る着ぐるみの犬と、ちーたんという小さな人形がサイコパス殺人犯のごとく高笑いを立てて、会場へ声を轟かせる。この時期の赤子はみな、ここから始まり、目に留まったすべての対象物をワンワンと呟く。
推しか。
生まれたばかりの日本の赤子たちでさえ某教育番組「ないないでバンバン」のわんわんを推しとして刷り込まれているという噂がある。
母親が夕食の支度で慌ただしいとき、誰も相手をするものがいないというワンオベ戦争の実情。午後四時。それは突如スターとして輝いて舞い落ちる。
わんわんが歌って踊り、夕食が作れ、子たちの眼光が炯々と輝き、さらに母親たちも嬉しい。抱っこぉお抱っこぉという後追いも軽減される。
好きな推しをもっと見せたい、家族はこの為にチケットを取り、北から南へとコンサート遠征も厭わない。
果ては芸能事務所に入り、わんわんとの共演を夢見る猛者まで存在する。すでに生まれたときから、男女関係なくオタ活は始まっているのかもしれない。
だからか、綾瀬が平凡受にのめり込むのは無理がない。そう、自分にいいかせているがどうみても妄執のとりこのように執着しているのを本人は自覚していない。
綾瀬はスマホからTwatterのアプリをひらいて、奥入瀬川のせせらぎのように流れるツイートに視線を流していく。
(ぽっぽタケル、また改名したな……)
ぽっぽタケルが「ぽっぽタチバナ」へと改名していた。そして小鳥のさえずりのように、ちんぽと呟いていた。
なぜだろうか。一次創作界隈はちんぽが花言葉のように紡がれて、だれかが「ちんぽ」と垂れ流せば、息を吸うように「ちんポッポ」と返すイカれた世界観に満ち溢れている。
ちなみにタチバナ氏は神絵師と挙式を挙げたという噂まででているが真実は闇へと葬られている。Twatterは緩やかな河川のようにみえて、萌えも趣味もすべてが幅広く、イカれた亡者が海底二万マイルより深い奥底に潜んでいる。
あれ? ハルさんが呟いてる……!?
『作業してます。ひまなので、どなたでも歓迎です(*´∇`*)』
下にはモクモクのIDが書かれ、全体公開されている。
な、ん、だって……!? 俺でも入室できるじゃないか……!
手にしていたスマホが鞘炎一歩手前の手首のせいで、カタカタと新幹線のぞみN700系が過ぎ去るように揺れ動いた。
落ち着けよ、じぶん。
冷静と情熱のあいだで綾瀬の睫毛が白鳥の胸毛のように震える。
ちんぽっぽタチバナは神絵師と挙式までしている。お揃いの指輪までフリートへあげて、メッセージを送った記憶が残っている。
仲人はたしかモブレと尿道責めというワードに南米ど真ん中に位置するナナイ河のピラニアのように食いつく「あずにゃん」。つまり、俺にもその可能性があるのだ。
「ちょっと! 夕飯は!」
「ラップしといて!」
「たく! 勝手にしなさい!」
怒鳴る母親を横切って、綾瀬はそそくさと自室へこもる。
扉を静かに閉めて、あたふたとベッドの上に飛び乗ると膝を折って正座した。高鳴る鼓動をおさえて、スマホを目の前に置くとモクモクアプリを起動してひらく。
俺も、ハルと挙式をあげるのか。いや、挙式は晴斗と決めている。いやいや、これは断じて浮気ではない。親交を深めるだけだ。決して二股じゃないんだ。
神絵師ハルは誰かと話している。綾瀬は目を凝らしてアイコンに熱い視線を送った。
……まただ。サイコパス・ケイト。
綾瀬は長い指先をそっとスマホから離して、整った顔面に冷えた手のひらを覆うようにあてた。百合の女神とも言われる、謎多き神絵師。いつもハルと会話を交わしていて、羨ましいなと思いつつツイートを眺めて追っていた。フォロワーは千人を優に超えている。
神たちの集いに平民は憧れを抱いて、天からのお告げを胸に秘めて興奮を膨らませ、羨望の眼差しでツイを読んでしまう。その二人の睦まじい仲を裂くことは言語道断といってもいいほどだ。
……ここは、聞き耳機能を使おう。
モクモクではどんな会話をしているのか、入室前にこっそりと会話を盗み聞きできるのだ。それは誰が聞いているのか分からないようになっており、綾瀬はストーカーの如く会話に聞き耳を立てることに決めた。
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