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第5話

吃驚して思わず、逢坂は後ろから柴田の腕を引っ張っていた。柴田が後ろ向きによろけて、声が途切れる。ハッとして真中を見やると、真中は柴田ではなくて何故か逢坂のことを見ていた。口元は笑っている。咄嗟に取り繕わないと、と思って、逢坂は柴田より前に出た。 「あの、俺、弟です!」 「・・・弟」 「兄貴がいつもお世話になってます!」 ばっと頭を下げると、頭上でくすっと笑う声がした。ゆっくり顔を上げると、真中がそこで笑っているのと目が合う。かなり強引だったが、誤魔化せたのだろうか、これはどっちの顔なのだろうと思って、逢坂は熱くなった耳を押さえた。真中の名前は柴田から聞いていた。しかし柴田は何故か、セフレだった時から逢坂に何か後ろめたいことでもあったのか、真中のことを必要以上には話さなかった。だから逢坂が知っていたのは、真中という名前であるということと、柴田の上司であるということくらいで、真中のひととなりのことは良く知らなかった。勿論、想像してみたことはある。柴田が思っても報われないその上司が、一体どんな形をしているのか、逢坂も貧困な想像力を使って、思い描いてみたことくらいはある。 「こちらこそ、いつもお兄ちゃんには助けてもらっています」 口角を上げたままそう言って、真中は逢坂に向かって頭を下げた。逢坂は如何したらいいのか分からないで、ちらりと柴田の様子を伺うと、案の定柴田は眉間に皺を寄せて、逢坂を見ている。しかし真中相手に本当のことを言おうとした柴田の選択よりは、今の方がずっといい、と逢坂は勝手に思った。ややあって、真中が顔を上げる。その口元はまだ笑っている。 「柴、弟なんていたんだな。知らなかった」 「・・・はぁ、俺も初耳です」 「ちょ、侑史くん!」 後ろから腕を引っ張ると、柴田は眉間に皺を寄せたまま、逢坂のことを鬱陶しそうにちらりと見上げた。そんな怒った顔をされても、他になんて言いようがあったのか、言いたい口を噤む。逢坂は逢坂なりに考えて、この場を変な空気にしないように、そして柴田と真中が次に顔を合わせた時に気まずくならないように、これでも一応精一杯考えているというのに。 「いやー、でも似てないな、君ら。弟くんのほうがイケメンだな。いいとこ持ってかれちゃったな、柴」 「ほっといてください、もうあっちいってください」 「オイ、上司に対してその態度どうなんだ」 「尊敬に値する上司だったらもっときちんとした態度で応じます」 困ったようにまた真中が笑って、急に逢坂に視線をやった。びくりと体が震えて、持っていた紙袋がとんっと柴田の体に当たる。 「酷いだろ、お兄ちゃんはいつも俺にはこんな感じで。弟くんからもちょっと優しくするように言っといてくれ」 「・・・あ・・・はい・・・」 「オイ、はいじゃねぇだろ、しず。もう、真中さんほんとにはやくあっち行ってください!」 「ひど!だから酷いって言ってんだろ!」 「煩いです。休日に真中さんと喋ってると仕事してるみたいで気分が休まらないんです!」 「あーそうですか!俺も柴と話してると仕事の話してるみたいだよ!また月曜日宜しく頼むな!」 「分かりました!いい休日をお過ごしください!」 「お前もな!弟くんと仲良くな!」 半分喧嘩腰のふたりのやりとりはそこで終わり、真中は最後に逢坂に爽やかに手を振って、来た道を戻って行った。やがてその黒い背中が雑踏に紛れて消える。柴田はそれを眉間に皺を寄せたまま、眺めていた。それにしても好きだった人に、だったにしていいのか未だに逢坂は疑問な部分ではあるが、取り敢えず希望も含めて好きだった人ということにする、その好きだった人に対して、柴田の態度が余りにも辛辣だったので、相変わらず愛情表現の下手くそな人だと思って、その顔が全く自分を向いていなくても抱き締めて頭を撫でてやりたいような気分になって、どうしてまだ外にいるのだろうと逢坂は思った。 「オイ、閑」 「あ、なに?」 ぎろりと柴田に睨まれて、逢坂はびくりと体を震わせた。 「お前いつから俺の弟になったんだよ?」 「だって・・・侑史くん、ほんとのこと言おうとしたから」 「別にいいだろ、それに真中さんバイだからそういうの気にしないよ、多分」 「気にするの、そこじゃないと思うんだけど・・・」 「じゃあ何なんだよ、すぐばれる嘘吐きやがって、お前はそんなんだから、ほんとに」 最後の言葉を濁して、柴田は何を思ったのか急に口を噤んだ。柴田がいつも真面目で誠実であろうとしているのは分かっているし、嘘が嫌いなのは分かっている。そんな風にして生き辛くはないのだろうかと思うこともある。変な波風立てないように、必要な嘘もこの世の中にはあると思う、少なくとも逢坂はそう思っている。それが大人の柴田相手に通用しないなんて、世の中は不思議が多い。 「まなかさん、はじめて会った」 「・・・そうだな」 「かっこいいね、まなかさん」 「・・・―――」 低い声で逢坂がそう言うのに、柴田は少し顔の角度を変えて見上げた。 「お前は良い奴だな、閑」 「え?」 「んーん。そうだろ、かっこいいんだよ、真中さんは」 「うん、かっこよかった。大人だな」 逢坂が目を伏せて呟く。長い睫毛が黒の虹彩に更に深い影を作って、光を追い出していく。良くないこと考えるに違いないとは思っていたけれど、柴田の予想に反する方向で、逢坂はやはり『真中さん』に対して何か思うところがあったらしい。それに何と言うべきなのか、柴田は考えていた。だから嘘なんて吐かなくて良かった。真中の前だからこそ、本当のことを言えば良かったのに、自分で自分の首を絞めていることに気付かないなんて、と柴田は思いながら息を吐いた。 「しず、俺はな、お前のそういうところが好きだよ」 「え、え・・・?」 「そういうところ、ちゃんと自分の気持ちに正直なところ、いいものをいいって言えるところも」 「・・・―――侑史くん」 目を伏せて逢坂が呟く、柴田は手を伸ばして逢坂の金髪を触るように少しだけ撫でた。 「帰ろうか」 「・・・うん」 小さく囁くように言うと、逢坂はそれに少しだけ眉尻を下げた情けない顔をしてうんと答えた。だから柴田は今日のことはもう、そこで終わったと思っていた。

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