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第6話
家に帰ればいつも通りだと思った、根拠はなかったけれど。柴田はソファーに凭れ掛かって、テレビを見ていた。逢坂は夕食の準備をすると言って、キッチンに行ってしまってそれきりである。朝と昼を一緒にしてフレンチトーストを2切れ食べただけの柴田は、流石にお腹が減っていたのでそれを止めることはしなかったけれど、何となく逢坂が目を合わせないようにしていることに気付いていた。良くないことを考えている。やっぱりほいほいと服を買ってやったのがまずかったのだろうかと、柴田は土曜の夕方の面白くないバラエティーを見ているふりをしながら考えた。今まで女の子としか付き合ったことがないから、柴田には逢坂が何をそんなに躊躇っているのか分からなかった。女の子は買ってやると言うと必ず喜んだのに、そうではない恋愛は難しい。ふうと溜め息を吐いて、柴田はキッチンに立つ逢坂の後姿を眺めていた。
(良くわかんねぇ、何怒ってんだ、アイツ)
怒っているという表現があっているのかよく分からないけれど、何となくいつもと違う雰囲気のそれを、柴田はどう処理したらいいのか分からないでいた。そう言えば逢坂が怒っているところも、柴田は見たことがない気がした。日記を勝手に読んでいた時でさえも、どこか何か取り繕うようにしていた逢坂の姿が蘇ってくる。そうやって子どものくせに、一回り近く子どものくせに、大人がやるより上手く自分のことをコントロールできているなんて、憎たらしくても可愛くはないと思った。考えるのにも段々と疲れてきて、年中凝っている首に手をやって、柴田はソファーにもたれたまま体を折り畳んだ。それにしても真中に偶然会ったのは驚いた。繁華街で向き合っているのに、職場で見ている真中と同じみたいに見えた。それしか知らないのだから、当たり前だった。真中が逢坂の下手糞な嘘を信じたのかどうか、微妙なところだけれど、月曜日会ったらその時は訂正しておいたほうが良いのだろうか、などと考えているうちに、段々眠くなってきた。
「侑史くん、侑史くん」
「・・・ん・・・?」
揺さぶられて目を開けると、逢坂が此方を覗き込んでいるのと目が合った。ソファーに座ったまま眠っていたらしい。今日は休日なのに早起きしたからだろうかと、思いながら目を擦る。ちらりとテレビを見やると見ていたはずのバラエティーは終わっていた。
「こんなとこで寝たら風邪ひくよ、眠たいならベッドで寝たら?」
「んー・・・別に眠くない・・・」
「嘘、寝てたのに」
逢坂が言いながら笑って、柴田はぼんやりした頭で少しだけほっとした。まだ夕食作りの途中なのか、逢坂は柴田が目を開けるのを見届けるとするりと柴田の傍を離れて、キッチンに戻ろうとした。あ、と思った瞬間、体の方が先に動いていて、逢坂が料理中はいつもつけている紺色のエプロンの紐を掴んでいた。するりとそれが解けて、逢坂と柴田の間でぴんと引っ張られる。逢坂が少し驚いたような顔をして振り返る。くいっと紐を引っ張ると、逢坂が眉尻を下げた困った顔をして近づいて来た。
「なに、侑史くん・・・―――」
伸ばした腕をするりとその首に巻きつけて、柴田が自分の方に引き寄せようとすると、逢坂がびくっと体を引いて、不自然に固まる。下から見上げると逢坂は此方を見ないまま、口元に手をやった。頬は赤いが照れているわけではないだろう。柴田は冷静に考える。
「しず」
「ごめん、今」
「・・・―――」
「火、かけてるから、離れたら危ない・・・ね」
反らした視線をあからさまに泳がせて、逢坂がそう言って柴田の腕をやんわり首から外した時に、柴田はこれは相当何かまずいほうこうにことが進んでいるのではないかと思った。そんな風に明らかに、分かりやすい方法で、拒否されるとは思っていなかった。逢坂の手が優しく自分の手を掴んで、首から外すのに、柴田はそういう優しさがいちいち駄目なのだと思いながら、それを黙って見ていた。逢坂がキッチンに逃げるように帰って行くのを見ながら、柴田はひとりひっそり溜め息を吐いた。眠たい体をソファーに預ける。今まで逢坂との関係の中で、こんな風に繊細にやり取りしたことがなかったし、逢坂が一体何を考えているかなんて、柴田にとってはどうでもいいことだったので、思案したことがなかった。
(そういうことしときゃ、機嫌直ると思った?それは、閑のほうが俺のことを好きだから?ほうが、なんて)
ソファーに寝転んだまま、柴田は逢坂のほうを見やった。相変わらずここからは背中しか見えない。柴田が引っ張ったせいで解けた背中の紐が、そのまま背中にくっついている。自分でも重症だと思ったけれど、こんな時に他にどんな方法があるのか、ふさわしいのか、柴田にはよく分からなかった。拒否されたことに少なからず、プライドが傷ついていて、こういう時に傷つくのがプライドで、心ではないことをゆっくり悟る。逢坂の方がずっとずっと自分のことを重たく好きでいることに、きっとどこかで胡坐をかいているのだ。そんな風に考えているのが、やっぱり逢坂には少しでも伝わるのだろうかとうとうとしてきた頭で考える。
(そんなこと失礼、失礼って思っていることももう、何か色々、俺たちはやっぱり上手く噛み合ってない)
さっきまで楽しかったのも、デートだと言って浮かれていたのも、まるで遠い昔の話みたいな気がした。もしくはそんなことを思っていたのは自分ひとりだったのかもしれない、なんて。どうすればいいのだろう、考えながら柴田は眠りに落ちて行った。
その後、逢坂に同じように起こされて、同じように目覚めた柴田は、同じように困った顔をしている逢坂とようやく目が合って、何にも進展していなかったし何にも解決していなかったが、やはり少しだけほっとした。柴田が立ちあがろうとすると肩を押されてやんわり制止されて、逢坂を見上げたところで、唇にキスをされた。寝起きのぼんやりした頭で、目も閉じないで考える。この風景には見覚えがあった。逢坂がまだ柴田の都合の良い男だった頃、柴田は逢坂にキスをされている時、何の意地なのかあんまり目を閉じた記憶がない。それと同じだと離れていく逢坂の唇を感じながら、急に思った。
「ごめんね、さっき、できなかったから」
そんな風に謝るくらいならしないでおけばいいのに、柴田は考えながら、しかし口には出さないで、変な体勢で眠っていたせいで痛い後頭部を叩いて全く気にしていない風を装った。取り繕う必要があるのか、ふたりの間にそんな必要があるのか、柴田には分からない。そんな風に義務みたいにしなければならないキスに、一体どんな意味があると言うのだろう。眉尻を下げたままの逢坂の顔を下から睨んで、今までの自分なら絶対に振り払っていたのに、どうしてそれを受け入れているのだろうと柴田は思った。恋人ならば許してやるべきだと思っているのか、一体どちらが、どちらのことを許すつもりでいるのだろう。
「侑史くん?ごめん、怒ってる、の?」
「・・・別に、飯、食おうぜ」
「あー・・・うん」
本当はもっと別のことを、言いたかったような気がした。逢坂ももっと別のことを言う予定をしていた口を噤んで、必要以上のことは言わない。こんなことに一体何の意味があるのだろうと、柴田はもう一度思った。切れ目なく纏わりついてくる思考の渦が、ひどく鬱陶しい。こんなこと考えたことがなかったのに、今まで考える必要がなかったのに、だから逢坂との関係は割り切れていて気持ちが良いだけで、柴田の空虚な時間を埋めるだけの存在として機能していたのに。
(恋人って難しい、どうやればいいのか、俺には分からない)
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