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第8話

朝、柴田が目覚めるとベッドの中に逢坂の姿はなかった。大体起きるのは柴田の方が先だったから、何となく嫌な予感がしたが、逢坂が眠っていたところに手を突くとひやっとしており、柴田は慌ててベッドから降り立った。リビングへ続く扉を開けると、そこはがらんとしており、誰の気配もしなかった。ただテーブルに何か置いてあるのが見え、柴田はゆっくりそれに近づいた。テーブルの上にはラップがかかった皿が乗っていて、その皿の上にはきちんとパンの耳が切り取られた形の卵とトマトのサンドイッチが乗っている。皿の下に紙が敷くように置いてあって、それを引き抜くといつか見た逢坂の美しい字で、『侑史くんおはよう。食べられたら食べてね。俺は友達と約束があるので家に帰ります。しずか』と書いてあった。金曜の夜、にこにこしながらやってきた逢坂は、そんなことを言ってなかったような気がしたが。考えながら溜め息を吐いて、柴田はソファーにぼすっと腰かけた。休日ならもう少し眠っていたいような気がしたが、すっかり眠気は引いてしまって、もう眠れる気がしなかった。しかし逢坂が作ったそれを、暢気に食べる気にもなれない。 (くっそ、逃げやがって、アイツ) 柴田の手の中で、逢坂の美しい字がくしゃりと歪む。何となく時間が経てば、何となくこんなことがあったことも忘れて、また元通りになるだろう、けれどそれでいいのだろうか、それで良かったのだろうか。柴田は深く息を吐いたけれど、逢坂の顔を見たらまた怒鳴ってしまいそうで、ここにいないことが、そういう意味では正解だったのかもしれないと思った。悔しいけれど、逢坂の選択はふたりのまだまだ不安定な関係を、これ以上波風立ててややこしくしないためには正しかったのかもしれない。すると部屋の隅に置きっ放しにしていた昨日買った服屋の紙袋が、ふと視界に紛れ込んできてはっとした。 (あー・・・結局、家に帰ってから開けてないし、多分持って帰ってない・・・) その中を確認しなくても、きっと昨日放ったままの形になっているのだろうと思った。だから柴田の服も逢坂に買ってやったそれも一緒にごっちゃになって入っているに違いない。一体何がそんなに気に食わなかったのだろう。眉尻を下げて困った顔をするのが精一杯の逢坂相手に、一体如何したら良かったのだろうと思いながら、柴田はソファーに転がった。そこで目を閉じてももう、風邪をひくから起きなよと誰も起こしてはくれないのだ。それが居心地いいのか悪いのか、柴田には分からない。 「おはよ」 いつものように挨拶をすると、学校一のプレイボーイはその端正な顔を僅かに歪めた。何となく嫌な予感がして、逢坂はすっと視線を反らす。 「随分眠たいカオしてんな、逢坂」 「そう?してないよー」 「うそ、女のところにでも泊まったのかよ、だらしねぇな」 「うーわ、伊原っちにそれだけは言われたくない」 大袈裟に耳を塞ぐジェスチャーをしながら眉間に皺を寄せて、逢坂は伊原の隣の椅子を引いて座った。講義室の中はまだ少し時間が早いせいで、生徒はまばらにしか集まっていなかった。逢坂は小さく溜め息を吐いて、椅子の背もたれに深く腰掛けた。伊原は今日も涼しい顔をして、その背筋を真っ直ぐ伸ばしている。結局、怖くなって柴田の家から途中で逃げた。日曜日に誰とも約束なんてしてなかった。嘘だってばれただろうなと思いながら、携帯電話が鳴らないことに安心しながら傷ついていた。一方的だと思ったけれど、どちらがどちらの力関係を優先して、一方的だという結論になるのだろう。逢坂にはそれも分からない。だが、自分はそこでそれ以上柴田と向き合っていたら、きっとまたよくないことをぺらぺらと呟いてしまう気がした。柴田の痩せた手が握った拳の形を思い出して、逢坂は胸の奥がヒヤッとした。それが叩いたのが自分の頬ではなくてテーブルだったことに、自分は感謝すべきなのか、それとも焦燥すべきなのか分からない。 「俺、今は男の人と付き合ってるって言ってるじゃん」 「あー、年上の?それも嘘くさいな、何かのカモフラなんだろ?」 「何をカモフラするんだよ、伊原っちじゃあるまいし」 「お前は俺を何だと」 「はは」 笑った喉がイガイガして痛かった。柴田はあの後どうしただろう、久しぶりの一人の休日を満喫できただろうか。それともいつもみたいに蹲るみたいに眠って過ごしたのだろうか、それとも仕事をしていたのだろうか。ふっと繁華街で偶然出会った真中の笑った顔が脳裏を過ぎった。柴田から名前を聞いたことがあったから、柴田が名前を呼んだ時にその人だと思ったけれど、その瞬間まで逢坂はその人が『真中さん』じゃなければいいのにと思っていた。人ごみの中から柴田を見つけて嬉しそうに此方に向かって手を振るその人は、逢坂が思い描いていた『真中さん』よりも遥かに、それは遥かに全てのハードルを華麗に飛び越えていて、颯爽と逢坂の目の前に立っていた。柴田が俯いて呟く、苦しそうに呟く、その名前を持つ人は一体どんな人だろうと考えてみたことがある、きっと柴田が好きになる人だから、素敵な人なのだろうと逢坂だって思っていたけれど、本物の『真中さん』はそれよりも遥かに、逢坂の貧困な想像力よりも遥かに。考えてそこで辞めにした。どうやっても届かない存在ならば、知らなければよかった、そんなことなんて、真中の本当の姿のことなんて。 (俺も、相当、女々しい) 逢坂が俯いて溜め息を吐く。それを伊原が隣で無表情で眺めている。 「何だよ、朝から暗いな、逢坂」 「んー、ちょっと喧嘩して」 「へー、お前喧嘩とかするんだな」 「あー・・・まぁ俺が悪いんだけど、俺がいつまでも昔のことを引き摺ってて」 「なに、サエに未練でもあんの?」 「逆だよ、逆」 逆?と聞き返す伊原の後ろから月森がやって来るのが見えて、逢坂はふっと視線をそちらにやった。月森がそれに気付いて手を振りながら近づいてくる。ややあって、伊原が振り返って月森の方を見た。講義室の中には生徒が続々と増えていく。 「心知、おはよう」 「おはよ、ふたりともはやいな」 笑って月森が、逢坂の隣の椅子を引く。伊原の唇が何か言いたそうに曲がって何も言わずに閉じる、それからわずかに口角を上がった。 「心知、逢坂が彼氏と喧嘩したらしい」 「え?閑、今サエと付き合ってるんじゃないの?」 「結構前に別れたよ」 「あー、そうだっけ?お前らなんかそういうのとっかえひっかえだから俺もう覚えておけない・・・」 「ちょっと心知!俺と伊原っちを一緒にしないでよ!」 「あー、ごめん。なんだっけ?カレシ?っていうかほんとに閑ってバイなんだね」 「俺はカモフラだと思ってる」 「だから何をカモフラすんだって。いいでしょ、別に」 「いや、いいけど、別に。なに、喧嘩したの?」 「それよりさぁ、逢坂のほうが掘られてんの?それとも掘ってんの?」 「伊原、お前、デリカシーをちょっと」 「ノーコメント」 「ちっ、つまんね」 ここで、柴田と離れたところで、笑っていると何でもないことのように思えるから不思議だった。まるでそんなこと何もなかったみたいに。

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