9 / 32

第9話

「なに、何で喧嘩したの?」 「・・・いやぁさ、ちっちゃいことなんだけど」 「心知に聞いてもらえよ、逢坂。心知も年上だろ?」 「え、あ」 あからさまに動揺した顔をして、月森が逢坂越しに伊原を見やる。伊原は興味を半分以上失ったような顔をして、肘を突いて前を向いていた。 「え、そうなの?心知の話ってそういえばあんまり聞いたことない・・・」 「いや、俺の話は良いよ。閑は何で喧嘩したの」 「心知はなんか買って貰ったりしたことある?」 「買って・・・?いやない」 「・・・だよねー、でもまぁ女の子は年下だからって無暗になにか買ったりしないかぁ」 「なに、なんか買ってくれたの?いいじゃん別に」 肘を突いたまま伊原が言う。月森は何か言いたそうに唇を動かしたが、結局黙っている。 「うん、なんか一緒に買い物行ったら、流れで服いっぱい買ってくれてさ。でも良くないよ、俺なんか、ひもみたいじゃん」 「はは、逢坂、ヒモ似合うわ」 「伊原っちー、もううるさいなぁ、俺は真剣に悩んでるのに!」 「なに、それがやだったの?閑、ほんと真面目だなぁ・・・」 「え、だって嫌じゃない?俺にだってプライドあるじゃん、でも向こうはさ、年上だしちゃんと仕事してるしいっぱいお金あるからさ、別にそんなこと何でもないみたいなんけど、それもなんか腹立つって言うか」 言いながら言葉を切って、逢坂はその先のことを考えた。柴田が良いと言うなら、それで良いのだと思いたかったけれど、中々割り切れなくてもやもやするばっかりだった。確かに柴田は逢坂より一回り近く年上できちんと仕事をしている。親の仕送りで生活をしている大学生の逢坂とは、圧倒的に全てが違う。全てが違うのだと思った。そんなことをさらっと何でもないことのようにしてしまう柴田と自分は、分かり合うことなんて不可能なのではないかと思って背筋が寒くなった。 「腹立つって言うか惨めだったって言うか・・・なんかそんなのフェアじゃなくてやだなって思った」 「ふーん、俺なら何でも買ってくれるものなら貰うけど」 「まぁ分からなくもないけど。でもなんか代わりにさ、閑にもできることがあるんじゃないの」 「俺に?なんだろ・・・」 「セックスセックス」 「もう頼むから黙って伊原っち」 相変わらず前を向いたまま無表情で口だけ動かす伊原の肩に手を置いて、逢坂は心底うんざりしながら呟いた。それを隣で月森が笑って見ている。 「伊原は閑と一緒に居ると良く喋るな・・・」 「俺、逢坂のこと好きなんだ。なんか面白くて」 「俺はきらいー」 唇を尖らせて逢坂が言うと、また月森がそれを見ながら声を上げて笑った。 「俺もう学校やめて働こうかな」 「オイ、逢坂が学校やめたら俺たちのノートは誰が救済するんだよ」 「あ、それ何気に俺も入ってる?」 「もう俺に頼らないで、授業中堂々と寝ないで」 困ったように眉尻を下げる逢坂に、伊原はいつものように口角を少しだけ上げる。月森はごめんごめんと言いながら笑って肩を叩いた。それが逢坂の日常だったし、これからもきっとそうだろう。そんなことでもやもやしているところに、偶然真中に会ったりして、本当にあの日は最初から最後まで運が悪かった。逢坂には考えることが多すぎた、余りにも。柴田が何でもない顔をしているから余計に、逢坂は考えずにはいられなかった。もうすぐ講義がはじまる教室は、生徒で賑やかに埋め尽くされている。それこそが逢坂の日常だった、間違いなく。今頃、柴田は職場に行っているだろう、そしてそこには真中もいるのだろう、それが柴田の日常で、逢坂のそれとは決して交じり合わない軸に存在している。かっこいいねと呟いた逢坂に応えるように、かっこいいんだと言った柴田がどんな表情を浮かべていたのか、逢坂は不思議と思い出すことが出来ないでいた。柴田が職場で真中と向かい合って、今まで息を殺すように好きだと思っていたその人を、どんな目で見てどんな言葉をかけてどんな気持ちでいるのかなんて、逢坂には到底分かりっこない次元の話なのだ。 (だって、気持ちは、そんなに、簡単に) (なくなったりしない、それくらい俺だって知ってる、侑史くん) 発信中の表示が消えない携帯電話を握って、柴田は野菜ジュースのストローを噛んだ。昨日仕事帰りにコンビニに寄ったが、逢坂の姿はなかった。勿論、柴田が行った時にほとんど逢坂はいるものの、いない時もあったけれど、何となくタイミングが良すぎるのが気になって、その夜電話しようと思ったけれど、何で自分からそんな電話をかけなければならないのか、そもそも一体逢坂相手に何と言うのか、考えているうちにまた眠ってしまっていた。翌日の昼休みになってようやく、柴田は逢坂に電話をかける決心をし、こうしてコールしているのだが、いっこうに繋がらなくて苛々していた。彼も彼の日常が柴田とは同じ時間軸であり、一体何をしているのか余りよくは知らないが、概ね昼間は学校に行っているらしい。講義の時間と被っているのだろうかと、諦めて柴田は発信を止める。昼休みの事務所は閑散としていて、残って仕事をしている所員もいるが、ほとんどは外に食べに出かけているようだった。柴田もいつもなら同僚と外に食べに出かけるのだが、今日はそんな気分にもなれなくて、野菜ジュースを飲みきったところでもういいかと思った。逢坂に言ったらきっと怒るのだろうなと思いながら、机の上に額をつけてじっと目を閉じる。逢坂がまだ、そんなことを自分相手に言ってくれるのならばの話だが。 (くっそ、何でこんなことで頭痛めなきゃなんないんだよ、俺が。面倒臭い・・・) 仕事をしようと思って柴田は顔を上げた。仕事だけは自分を裏切らないから、特に急ぎの案件はなかったが、兎に角仕事をしていれば安心で安全だった。真中のことを思っていた時も同じだった。考えながら綺麗に片づけられた机の上からファイルを取り出して捲っていた手を止める。 (俺、前と一緒だな、何にも変わってない) うんざりする。真中さん変わったねと藤本がしみじみ呟いたみたいに、柴田を見る時の逢坂の目が変わったみたいに、自分も何か変わっているのだろうとぼんやり思っていたけれど、こんなことは今までの繰り返しで、何回もやったことの焼き直しで、何にも変わっていない。考えて手を止める。置きっ放しの携帯電話をちらりと見やると、暗く沈黙したままだった。こんなことだからきっと、逢坂は視線を反らして真中のことを呟いたのだろう。呟かざるを得なかったのだろう。柴田がいつまでも変わらないことを、まだ罪悪の気持ちを何処かで引き摺りながらいることを、彼は彼できっと気付いていてそれに傷ついていたのだろう。柴田はもう一度携帯電話に手を伸ばした。もう一度かければ、今度は繋がるような気がしていた。 (いや、俺が悪い、俺が悪かったんだ、多分) すると柴田の手が携帯電話に触れる前に、ふっとそれが目を覚ましたみたいに光を発した。ハッとして柴田は手を止める。がたがたと机の上で煩くなるのをぱっと捕まえる。まさかと思って覗き込んだ液晶には、『氷川了以』の名前が表示されていた。

ともだちにシェアしよう!