10 / 32

第10話

事務所から2駅離れたところにあるコーヒーショップに着くと、大き目のサングラスをしているその人はすぐに分かった。柴田は店に入る前に襟を正してジャケットを羽織り直した。今日は内勤だけの予定だったが、割合きちんとした格好をしていて良かった。考えながら店に入る。氷川了以は目立つ窓際の席にわざと座っているのだろうと思った。氷川と外で会う時は、彼は大体サングラスをしていて、日光が苦手でと赤い目をして呟いていることがあったので、きっと生来的に色素の薄い彼は、日の光でさえも自身を突き刺す刺激に変えてしまうらしい。そういう分かりやすい弱さと、傲慢で決して折れない芯を同時に持っていて、真中がそれを大事に守りながらどこかで自由である彼に憧れみたいな気持ちを育たせていたのを知っている。ずっと長い間それを近くで見ていたから、柴田はそれを理解しているつもりだった。 「氷川さん」 呼びかけると氷川は今気づいたみたいな仕草で柴田を見上げて、少しだけサングラスをずらした。現われた瞳を三日月に変えて、氷川はにこっと愛想良く微笑む。そうしてテレビか雑誌の中の空想の人物みたいな優雅な仕草で、手をかけていたサングラスを外す。真中と対峙しているところを何度も見ているので、それが彼の外面なのだと知っているけれど、柴田はそれを知らないふりをしている。氷川は氷川で、真中とそれ以外の人間に対する対応を使い分けているつもりなのだ。 「すみません、お呼びたてしてしまいまして」 「あ、いえ」 「どうぞ、座ってください」 正面の椅子をすすめられて、柴田はそこに腰を据える。やってきた店員にホットコーヒーを頼んで、ふっとテーブルを見やると氷川はアイスコーヒーを飲んでいた。 「どうしたんですか」 「いや、この間のラウンジの件、おさまるところにおさまりました。予定通り着工はじまりましたよ」 「あ、そう・・・ですか。よかった」 「すいませんね、色々、柴田さんにも迷惑かけて」 「いえ、俺は何も」 何となくそれは真中から聞いていたから、柴田は知っていた。そんなことを話すために呼びつけたわけではないだろうと思いながら、運ばれてきたコーヒーに口をつける。そっと目を上げてみると、正面で氷川は柴田のことをじっと見ていた。 「氷川さん?」 「俺、前から思ってたんですけど」 「はい」 「柴田さんって、いつまで真中のところにいるつもりなの」 口調が急にフランクになって、柴田は慌てた。氷川はテーブルに肘を突いて、柴田の方を見ながらにこっと笑った。どういう意味なのだろうかと、柴田は考えたけれど氷川が言いたいことがそれだけではよく分からなかった。まさか氷川が真中相手に柴田がかつて思っていたことを汲んでいるわけはないだろう。なんとなくそういうことには鈍感そうだと勝手に柴田は思っている。 「いつまでもアイツのところにいたって仕方ないだろ。独立したら、柴田さん」 「・・・え?」 「俺、思ってたんだよね。前から。柴田さんスゲー仕事できるのに、何で真中のところにまだいるんだろうって」 「・・・―――」 「俺、柴田さんのこと好きだからさ。その気があるんだったら援助してあげてもいいよ」 独立。そんなこと一度も考えたことがなかった。柴田は大学を卒業して、一度は大手に就職したが、真中と一度一緒に仕事をして、その仕事ぶりに惚れてすぐに辞表を提出し、真中デザインに移った。最近は真中が余り外で目立つ仕事をしなくなったので、それは口惜しいと思ったりすることは確かにあったし、時々息が詰まるみたいに忙しくなることがあったが、別段現状に不満があるわけではなかった。目を丸くする柴田を面白がるみたいに、氷川は美しい顔で笑って、長い足をまたドラマみたいに組み替える。 「・・・独立」 「なんだ、全くそういう気ないの?もったいねぇな」 「・・・いや、でも、俺は」 「アイツのところにいるの勿体ないよ、真中のところなんて長くいる場所なんかじゃないって、ほんとは分かってんだろ?」 そうなのだろうか。氷川も元々は真中のところにいたというのは柴田も良く知っている。長く一緒に仕事をしていたわけではなく、氷川はなんだったかの新人賞を取ると、さっさと事務所を辞めて独立してしまった。そしてひとりで今の地位を築いている。その氷川がそう言うのだったら、そうなのかもしれない。考えながら柴田は俯いて、湯気を上げるホットコーヒーを眺めた。 「なんだ、柴田さんって、意外とそういう野心とか、ないんだな」 「・・・はは、あんまり確かに・・・考えたことないです・・・ね」 「へー。じゃあなんであんなに一生懸命なれんの?俺には理解できないなー」 「氷川さんは一生懸命じゃないんですか」 「あぁ、俺?俺は違うよ、俺はただ、この仕事が好きなだけ。最近はそれ以外の面倒臭いことも増えて、純粋に好きでやってた頃とは変わってきちゃったけど」 肘を突きながらやや愚痴を零すみたいに、氷川は口を曲げながら言う。それを見ながら確かに、カリスマと世間に騒がれていた頃と今の氷川は、少し変わってきているのかもしれないと柴田は思った。おそらくカリスマと騒がれていた頃の氷川は、昼間のコーヒーショップに仕事相手を呼び出し、独立をそそのかしたりはしないだろう。そういう自分以外の者に目を向けたり気を配ったりする余裕が、今の氷川にはあるのだ。柴田はぼんやりと思った。その姿勢は以前よりもずっと人間性を取り戻したように見える。 「まぁさ、考えといたほうが良いと思うよ。柴田さん今幾つだっけ?」 「あ、32です」 「そうなんだ、って言うか俺より年上じゃん、ごめんタメ口で」 「はは、いいんですよ。氷川さんはそういうのとは別ですから」 「いや、なんかそういうの、世間ずれしてるからで許される範囲超えてる気がするから、駄目だよな。俺いつまでも子どもみたいで」 言いながら背もたれに背中を預ける氷川を見ながら、氷川でもそんなことを気にしたり、いちいち反省したりするのかと思ったら少しだけ意外だった。 「じゃあ俺、もう行くわ。わざわざ来てくれてありがとう。またゆっくり飯でも食いながら話そう」 ちらりと腕時計を見た後、氷川はすっと立ち上がった。流石の売れっ子はこんな時でも時間に追われているらしい。柴田も慌てて立ち上がった。氷川は椅子の背もたれにかけていたジャケットを羽織り、机の上に置いてあるサングラスを取り、そしてそれをまた手慣れた動作でかける。 「・・・あ、はい。俺も、氷川さんと話せて嬉しかったです。すいません、なんか、気にしてもらって」 「はは、いいんだよ。その気になったらいつでも教えて、じゃあ」 「お疲れ様です」 頭を下げる。次に柴田が顔を上げた時、そこからは氷川の背中しか見えず、丁度コーヒーショップを出て行くところだった。柴田はそれをぼんやりしながら見送っていた。

ともだちにシェアしよう!