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第11話

氷川の美しい笑顔が、頭の中をぐるぐると回っている。氷川には何度も会っているし、ふたりで沢山話をしたこともあるが、あんな風に呼びつけられることも、仕事以外の個人的なことで話をしたのも初めてだった。まぁ半分くらいは、氷川のしたそれは仕事の話だったのだが。別れてからふっと息を吐くとアバラの裏がきゅっと痛くて、あぁ自分はまだ氷川の前で少し緊張して、体を固くするくらいのことはしているのだと、柴田は静かに思った。残ったホットコーヒーの味はもうしなかった。支払いは当然みたいに氷川が済ましていて、それになんのお礼も言えなかったことを柴田は当然みたいに悔しく思った。事務所に帰ってくると、昼休みはとっくに終わっており、いつもの騒がしさが戻っていた。柴田はその隙間を縫うように歩いて、自分のデスクまで戻った。開けっ放しの資料が入ったファイルがパソコンの前に置かれたままになっている自分のデスクの椅子に、何故か真中が座っている。真中は柴田を見上げると、珍しく渋い顔をした。 「柴田くん、おかえり」 「・・・あぁ、はい・・・今帰りました」 「遅かったね、随分遠くまで行ってたみたいだね」 「はぁ・・・」 口調の可笑しい真中を見ながら、柴田は真中が座っている自分のデスクの上に鞄を置いた。肩が凝るのでジャケットを脱ぐ。柴田にとってはそれが退いてくれというサインみたいなものだったが、それでもまだ真中は柴田の椅子に座っているままだった。ジャケットの置き場所がないので、仕方なく机の上に置いた鞄の上にかけた。ジャケットを脱ぐといきなり寒くなって、柴田は無意識に二の腕を擦った。背もたれにかけたカーディガンを羽織りたいが、真中はそこを退いてくれない。 「すいません、超過した分は時間休扱いで・・・」 「いいよ、そんなもん!お前なんか俺に!言うことあるでしょうが!」 「え?」 珍しく真中が大きな声を出したので、一瞬事務所が静まり返った。柴田が真中を怒っていることはよくあるが、その逆はほとんどない。周りの所員の一体如何したのだという視線が痛い。何だか急に真中より立場が低くなったみたいな気がして、勿論この事務所の中で真中が一番偉いのだが、柴田はふっと溜め息を吐いた。きんと冷えた空気感を流石に真中も感じ取った様子で、若干まずいと思っているらしいことはその表情から読み取れた。真中は渋い顔をしたまま立ち上がって、所長室の方を指さした。 「柴田くんちょっと、所長室まで来てください」 「・・・はぁ」 溜め息とも返事ともつかない声で答えると、真中はようやく柴田のデスクから離れてすたすたと所長室の方に向かって行った。前を歩く真中に柴田は後ろから黙ってついて行く。真中は所長室に入ると、自分のデスクの椅子にどかっとわざと乱暴に座った。こちらを見る目はさっきより鋭くなっている。何か怒っているのだろうかと、それを見ながら柴田は考えた。 「どうしたんですか、真中さん」 「どうしたんですかじゃないよ、柴田くん。さっき了以からご丁寧に電話がかかってきたよ、あなたのことで!」 「その喋り方、気持ち悪いんで止めてください」 「なんだよ!お前もかよ!この裏切り者!退職金なんかださねぇからな!ばーかばーか!」 大人のくせに子どもみたいにいじける真中を見ながらうんざりして、氷川も性質が悪いと思った。あんなことを話せば、真中が拗ねることくらい目に見えているだろうに。いや、それが案外狙いなのかもしれない。やはりこの二人の関係性は、おそらく他人には永遠に理解されない。理解されないから何があっても仕方がない。氷川の意地悪そうな美しい笑みの裏側に、一体どんな思案が隠されていたとしても、柴田はそれに今さら驚いたりしない。考えながら年中凝っている肩に手をやる。 「真中さん、氷川さんがなんて言ったか知りませんが」 「お前らだけでこそこそしやがって!」 「俺、別に辞めるつもりも独立するつもりもありませんので」 「俺がどんだけ苦労してるかも知らねェで!・・・ん?」 「話はそれだけですか。俺仕事に戻っていいですか」 柴田が踵を返そうとすると、後ろで真中がばっと勢いよく立ちあがった気配がして、柴田はゆっくり振り返った。真中は驚いたようにこちらを見ている。 「柴、お前、俺のところにいるの」 「・・・なんで、アンタそんな弱気なんだ。真中さん。いちゃだめなら考えますけど」 「だって、了以が・・・―――」 言いながら真中が口を噤む。氷川はどんな風に真中にそれを報告したのだろう、笑いながらきっと柴田が言った以上のことを膨らませながら、真中に話したに違いない、そして一方的に電話を切った後は、こちらからかけても暫く繋がらない。氷川はそういう人だった。それは彼を取り巻くスケジュールが秒刻みだと言うことも勿論影響しているが、氷川は誰かの時間軸に自分を添わせるというやり方は嫌う。だからこちらから連絡を取るのには苦慮させられた。思い出して柴田はもう一度首を撫でた。 「口出せるんなら一個だけ。俺、そろそろリーダーに戻りたいです。一人は孤独なんで、やっぱ」 「あ・・・あぁ、うん・・・あぁ、そうか・・・」 「真中さん、俺の話聞いてます?」 真中以下の所員は、7,8人で構成されるいずれかのチームに所属している。そしてそのチームを統括しているのがリーダーと呼ばれる管理職だった。以前は柴田もリーダーをやっていたが、ある日突然異動になり、リーダーの職を外れた。かといって他の何かではなく、柴田は所長室の隣にデスクを移動させられただけで、現状ではどこのチーム所属にもなっていない。そして何か仕事を任される時は、どこかのチームのお目付け役みたいに派遣されている。別段それでも良かったが、他のチームが和気あいあいと話をしていたりするのを見ていると、何となく一人ぽっちで寂しいような気も時々していた。 「でも、うーん・・・俺的に柴は要所を締めてもらいたいって言うか、どっかのチームに入れたら力関係が可笑しくなるだろ」 「はぁ」 「あー・・・うん。分かった、なんか、考えとく」 「そうしてください」 すっかり安心した顔をして、真中はぬるい返事をしながら後頭部をがりがり掻く。何となく流されそうな気がする、と思いながら柴田は真中に背を向けた。そして所長室のドアノブに手をかけてから、ふと思い立って振り返った。真中はそこで大人しく椅子に座り直しているところだった。 「真中さん」 「ん?」 「あと、俺、忙しくなる前にちょっと休みもらっていいですか」 「・・・あ、良いけど別に、珍しいね、お前がそんなこと言うなんて」 座ったまま真中が意外そうな顔で呟く。そういえばここに移ってから、体調を壊す以外のことで余り休みをもらったことがなかった。氷川がどうしてそんなに一生懸命なのと呟いたそれが、柴田の頭の中に蘇ってくる。どうして一生懸命なのだろう、柴田も氷川が言ったようにただ仕事が好きで、真中に認めてもらいたくて我武者羅にやって来て、半分くらいは多分そのはじめの目的は達成されている。柴田は真中を見る目を少しだけ細めた。この後自分はどこに向かって走るつもりでいるのだろう。いつか氷川了以が今どこに向かって走っているのか分からないと思ったことと、それは少しだけ似ていると思った。所長椅子に座ったままの真中が、なかなか出て行かない柴田と目を合わせたまま、首を傾げる。柴田はそれに少しだけ口角を上げて、首を振ってドアノブを回した。

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