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第12話
液晶に着信を知らせるマークが残っている。それを確認して、いつの間にかかってきたのだろうと逢坂は思った。携帯電話はパンツのポケットに入っていることが多いが、時々鞄にそのまま放り込んでいることもあって、そうすると着信に気付かなかったりする。先程まで講義室にいたので、周りは静かだったし、一応バイブ設定にはなっているが、鳴ったら分かりそうなものなのに、と思いながら逢坂はそれを指で撫でた。電話の主は柴田になっている。一瞬誰か別の友人の名前と見間違ったのではないかと思いながら、逢坂はもう一度携帯電話を覗き込むようにして見た。しかしそれは何度見ても柴田の名前だった。
「あれ、侑史くんだ」
隣を歩いていた安井が立ち止まって、急に足を止めた逢坂を振り返る。月森と伊原とは、1限が終わったところで別れた。ふたりは同じ講義を取っていることが多いようだったが、逢坂だけはカリキュラムの組み方が違うので、3年になってから特に別行動になることも増えていた。元々べったり一緒に居る間柄ではなかったが、それに少し寂しいと思いながら、最後まで毒づくのを止めない伊原の頭を叩いて、ふたりとは別れた。最近、伊原がそんなことを前よりも頻繁にしつこく呟くようになって、どこか苛々しているのは知っていたが、逢坂はそれに気を回すのは面倒だと思って、そのまま放って置いている。月森はというと、そういうことには敏感そうなのに、伊原のそれには余り気付いていない様子で、今日ものんびりとにこやかに手を振っていた。何となく伊原が苛々しているのは月森のそういう鈍感な態度に対してなのかもしれないと逢坂は思っているが、口には出していない。
安井も逢坂も、今日の講義は昼過ぎには終わる予定だった。何日か前に逢坂の方から連絡があって、わざわざ確認されたので覚えている。逢坂がまた付き合って欲しいと言ってきたので、安井は断る理由もなく、それに二つ返事でオーケーした。そしてこれから一緒に安井の自宅まで行くつもりだった。逢坂には全くそういう気がないからいいものの、やはり傍から見ると少し可笑しいと、安井は離れたところから逢坂を見ながら目を細めて考えた。友達に一度神妙な顔で「依子、逢坂と付き合っているの」と聞かれたけれど、料理が得意と何処で聞きつけたか知らない逢坂が、ある日突然料理を教えて欲しいと泣きついてきて、それから時々逢坂の料理の勉強に付き合いがてら一緒に料理をする間柄になっているだけである。そもそも逢坂は、最早安井が側であれこれ教えなければならない段階を過ぎていたが、それでも誰かと一緒にするのが楽しいのか、逢坂は暇を見つけてはこうしてマメに安井のことを誘ってくる。ふたりで学内を歩いていると、付き合っているのかと聞かれる回数も増えてきて、何となく鬱陶しいと思いながら、安井は逢坂の誘いを断ることは出来ないでいる。
「逢坂、やっぱやめる?」
「ううん、よりちゃんちょっと待ってて」
そう言うと逢坂は携帯電話を耳に当て、安井から意識的に距離を取った。別段何か疾しいことがあるわけではないが、何となくそうしてしまうあたり、後ろめたさが少しでもあるのだろうかと逢坂は考える。発信音が耳の傍でずっとしている。この時間帯、柴田が一体何をしているのか分からないが、おそらく仕事中だろう。柴田は家にいない時は、基本的に仕事をしている、仕事しかしていない。本当に仕事以外に趣味もないし、楽しみもない。あんなに目の下を真っ黒にしながら働く癖に、それを嫌だと一度も言ったことがない。逢坂には分からないが、そうやって柴田に愛されている実態のない仕事という名前のものさえ、馬鹿なことは分かっているが少しだけ羨ましいと思ってしまう。考えながら発信音をじれったく待つ、柴田から電話をしてくれることは余りない。ほとんど連絡は逢坂からだった。余りないから少し嬉しかった。そうやって電話が繋がるのを、口元を綻ばせながら待っている逢坂のことを、安井は少し離れたところから見ていた。
『はい』
「あ、侑史くん!」
ややあって、柴田の声が携帯の向こうから聞こえる。嬉しくて声が跳ねたが、そういえば喧嘩をしている最中だったと思って、逢坂は少しだけ胸の奥がざわっとした。自分は単純だから柴田の顔を見れば嬉しいし、声が聞ければ嬉しいことを押さえることが出来ない。
「ごめん、取れなくて。何だったの?」
『あー・・・別に何でもない。今仕事中だから切るぞ』
何でもないとは何なのだろう、何かあった癖にと考えながら、逢坂は下唇を噛む。また何も言ってくれない、言っても仕方がないからだろうか。いつものローテンションな柴田の声が、性急に電話を切ろうとするのを慌てて逢坂は阻止した。
「ちょっと待って!侑史くん、今日!今日行って良い?」
『今日は駄目、帰るの遅くなるから。切るぞ』
「あ・・・―――」
あっさりと柴田のほうから電話が切れて、逢坂はふっと目の前が暗くなるのを感じた。柴田はまだ怒っていたり、引き摺っていたりするのだろうか。やっぱり何も言わずに出て行かなければよかったと思ったが、それは随分遅い後悔だった。
「逢坂」
ふと呼ばれて視線を向けると、電話を取る前に距離を取ったはずの安井が、いつの間にか目の前に立っていて、こちらを見上げている。
「大丈夫?上手くいってないの?」
「・・・あー・・・うん、なんかやっぱ難しいね。そう思えば、セフレん時は楽だったなぁ・・・」
「往来でそういうこと言わない」
眉を顰めて言う安井に、逢坂はははと笑いを零した。そしてまた安井の隣に並んで歩きはじめる。沈黙した携帯電話は、するりと逢坂のズボンのポケットに吸い込まれていった。もう多分かかってくることは暫くないのだろうと思うと、少し悲しかった。
「これからだよ、これから。だって付き合いだしたばっかじゃん」
「そうかなー、なんか言うじゃん、離婚の理由みたいなのでさ、価値観の違いっていうの?俺まさにそれだと思うんだよね・・・」
「珍しく弱気じゃん、逢坂」
「はぁ、だってさ、スキとか気持ちいいとか、そういうのだけじゃ駄目なんだもん」
「またそういう。アンタ、私が女の子だって分かってんの?」
「ごめんごめん」
笑いながら弁解をする逢坂に対して、安井はまた眉を顰めて見せたが、この調子ではあまりそれが功を奏してはいないようだった。
「私さ、そのひとのことは良く知らないけど、逢坂は十分頑張ってると思うよ。私が逢坂の彼女だったら、自分の為に彼氏がそんな風に頑張ってくれてたら嬉しいもん」
「よりちゃん、やさしい・・・」
「だからホラ、元気だしなよ」
微妙な顔をして、安井は隣を歩く逢坂の背中を慰めるつもりでポンポンと叩いた。
「うん、今日プリン作ろう、プリン」
「えー、ご飯系じゃなくていいの?」
「うん、侑史くんプリンとかヨーグルトとか好きなんだ。そういえばそういうの、一回も作ってあげたことないし」
「そっか、プリンかー」
安井が材料をあれこれ考えながら呟いているのを隣で聞きながら、逢坂はまだ視界の隅が黒いままのことを、何となく知らぬふりを続けていた。
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