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第13話

「柴さん、何読んでるんですか?」 突然そう話しかけられてふと顔を上げると、柴田のデスクの前にいつの間にやって来たのか堂嶋が立っていた。目を合わせるとにこっと笑って、柴田の持っている雑誌を指さす。柴田はそれには答えず、それを机の上に広げて、堂嶋にも見えるようにした。柴田がその時、すっかり退勤処理を済ませた後、デスクに残って読んでいたのは旅行雑誌で、開いたページには旅館の露天風呂が掲載されている。 「何ですかこれ、なんかの資料?」 「ん、波多野さんとこのチームがこの間やってただろ?旅館の内装の仕事、あの時に買ったらしい資料貰ったの」 「へー・・・いいですね、こことか」 「だろ?俺も休み貰ってゆっくり風呂にでも浸かりに行こうかと思って」 背もたれに背中をつけると、凝った肩がぎしっと痛んだのが分かった。堂嶋は雑誌を取り上げ、興味深そうにぺらぺらと捲っていた。 「へぇ、そんなのよく真中さんが許しましたね」 「だって俺、ここに移ってからろくに休み貰ってないし、別にいいだろ」 「柴さんがいなくなっちゃうと皆困るなぁ・・・」 「いなくなるって、2,3日のことだろ、大袈裟だな」 そう言って笑うと、堂嶋が冗談ではなかったのか少しだけ神妙な顔をして見せて、雑誌を柴田の机の上に戻した。ちらりと腕時計を見ると、いつの間にか12時近くなっている。こんなところで遊んでいないで、帰ってまたじっくり見たほうが良いと思いながら、帰ると絶対見ずに眠ってしまうので、事務所で捲っていたのである。それにしてももう帰ってもいい時間帯だ。 「彼女と行くんですか?」 にこにこ笑いながら聞いてくる堂嶋に、他意なんて勿論ひとつもない。普通の人の思考回路は勿論そうなっている、そうなっているはずだ。柴田はそれに苦笑いを浮かべながら、何と答えたらいいのか分からなくなって、後頭部をぱんぱんと叩いた。 「あー・・・彼女じゃない、弟と行く」 「え?柴さん弟なんていたんですか、初耳」 「あぁ、うん。最近できたんだ」 「最近?」 堂嶋が首を傾げる。それ以上のことは柴田には言えそうもなかった。 「俺もう帰るわ、堂嶋は?まだなんかやってんの?」 「あぁ、はい。ウチの子が現場行ったっきり連絡ないので、もうちょっと待ってみます」 「そうか。おつかれ」 「お疲れ様です」 貰った旅行雑誌を鞄に詰め込んで、柴田はそれを持ち上げて立ち上がった。堂嶋がふらりと柴田のデスクを離れて自分の机に帰って行く。そういう時、柴田はひとりで少しだけ寂しくなる。そう言ったら真中はきっと笑うだろうけれど、今の何もない宙ぶらりんの状態を、改善してくれるのならばもう何でもいい気がしている。あの真中の様子だとそれも余り期待できない気がするが。事務所を出て、エレベーターで地下に降りながら、柴田は携帯電話を取り出した。仕事の連絡以外は何も来ていない。昼間のレスポンスが逢坂からあったけれど、仕事中だから何も言わずに切ってしまった。色々考えていたことも、話さなければと思いながらそのままになっている。今から電話をかけようかと思ったが、12時を回っている時計を見ていると、特に急ぐ用事でもないし別に明日でもいいかと思って柴田は携帯を鞄の中に突っ込んだ。 そうやって部屋の前で待っているのは怖いから止めろと、柴田が何度も言っていたことを思い出した。しゃがんだまま少し眠ってしまっていたらしい。ぼんやりした頭のまま逢坂は腕時計を見やった。12時を回っている。昼間確かに帰るのが遅くなるからと柴田は言っていたような気がする。はぁと溜め息を吐くと、それが白く残った。寒い。もう夜はここで待っているのも限界かもしれないと考えながら、逢坂はコートのポケットに手を突っ込んだ。柴田の都合の良い男だった頃、柴田が帰ってくるのをここでずっと待っていた。柴田がそれをどんなに嫌がっても、逢坂は聞こうとしなかった。柴田の時間を一分でも一秒でも無駄にしたくなかったからだ。思えばそれは酷い独占欲と嫉妬だった。ただの都合の良い男で良いと一度は思って、確かにそうなったのに、なかなか気持ちまでがそれについて行けずに、ずっと苦しかった。 (でも俺、結局ずっと苦しいままだ) (侑史くん、今日はまた特別遅いな、何やってんだろ) 半分くらいうとうとしながら考える。毎日会いたくてもそんなことは勿論無理だし、毎日声が聴きたくても、そんなことは無理だ。分かっている。けれど。 (まなかさん、とは毎日会ってるんだろ、声だって毎日、聞いてるんだ) 俯くと考えが余計狭まって、良くない方向に回りはじめるけれど、逢坂はそこに俯いて座っていることしかできなかった。ふうと息を吐くと、それがまた白く残る。きっと柴田は自分を見つけたら、また怒るのだろう、こんなところに座っているなと、それに今日は来たらいけないと言われたから、それもきっと怒られる。でもどうでもよかった、そんなことはどうでもよかった。 (俺は本当は侑史くんのことなんか、全然考えてない。自分が良ければ、それでいいんだ。自分の欲求が満たさればそれで) ふらりと立ち上がって、逢坂は今日は帰ろうかなと珍しく思った。こんな気持ちのままで会っても、また良くない話をしてしまいそうで怖かった。前のことを上手く謝れないばかりか、そんなことになってしまっては目も当てられない。今度こそ柴田は呆れてしまうだろう、こんなところで座っていることも全部、今ならなかったことにできる。持ってきたプリンを見やる。どうせコンビニで何か買ってくるだろうから、これもいらないなと思いながら、安井が用意してくれたかわいらしい手提げ袋を拾い上げる。背中を叩いてくれた安井の顔が過ぎって、それに酷く申し訳ないような気持になる。 「しずか?」 ふと背中から声がして、慌てて振り返ると柴田がそこに立っていた。不味いと思ったけれど、こうなってしまっては取り繕うこともできない。逢坂がどうすることもできずにただ黙って立っていると、柴田が苛々した所作のままですたすたと近づいて来た。近づいてくると眉間に皺が寄っているのが分かる。やっぱり怒っているのだと思いながら、逢坂は無意識に2,3歩足を後退させた。 「お前、今日来るなって言ったよな」 「あー・・・うん、ごめん」 「それに前で待ってるなって言ってる、ずっと」 「・・・うん、ごめん」 「ごめんじゃねぇだろ、お前ホントに、いつも俺の話聞いてるようで聞いてねぇし」 はぁと柴田が溜め息を吐くのが聞こえて、逢坂はまたじわっと目の前が暗くなる感じがした。柴田が鍵を取出し、部屋の扉を開ける。

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