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第15話

目が覚めた。 (・・・いきてる・・・) 見慣れた天井をぼんやり見ながら、柴田はゆっくり体を起こした。体中が痛かったが、どうやら痛覚が残っているということは生きているらしい。人間は案外丈夫にできている。あんなに痛かったのに。目が覚めたらちゃんとベッドに眠っていて、長い夢でも見ていたのかと思ったけれど、これだけ体中痛いのなら、あれは夢ではなかったのだろう。不思議と穏やかな気持ちで、柴田は体の痛みに気をやりながら、慎重にベッドから降り立った。いつもの寝巻代わりのTシャツに、着ていた服が変わっている。逢坂はあの後、ちゃんと正気に戻ったのだろう、それを見ながら柴田は思った。体も綺麗になっている。余計な気を回すことができるのだったら、あんなことをしなくてもよかったのに。柴田はひとつ溜め息を吐いた。体中どこもかしこも痛かったけれど、本当はろっ骨の奥が一番痛かった。眉を顰めながら寝室の扉を開ける。リビングは閑散としていて、昨日柴田がこの部屋を出たままになっている。誰の気配もない。慎重に足を動かしながら、柴田はリビングを通って廊下に出た。そこで先ほど暴行されたとは思えないほど、廊下はいつもの様相だった。どんな顔をして逢坂はそこを掃除したのだろうと、ぼんやりした頭で柴田は思った。また一つ息を吐くと、きしきしと骨が軋む音がした。 (もう、俺、閑に会うことないんだろうな) あの日、ノートを返してくれと逢坂がこちらに手を伸ばした時、柴田は苦しくて辛くて、どうしても逢坂を失えないと強く思った。その時と何が変わったのか分からない、けれどもう柴田はその足を引き摺って、どこかに消えた逢坂を追いかけることはしないだろうと、綺麗に乾いたフローリングを見ながら思った。どうせ別れるならあの時別れていたほうが良かったのかもしれない。そうすればこんなに心臓が痛むことなんてなかった。どちらの別れ方も綺麗ではなかったけれど、今回のそれよりはマシだったとどう考えても思える。柴田はくるりと踵を返して、部屋の中に戻った。喉が酷く乾いている。咳をして冷蔵庫を開けた。相変わらずがらんとしている冷蔵庫から水を取り出して、ペットボトルの口に直接口を突けて飲む。2口ほど飲むとその清涼な水が胃の中に入って、少しは頭の中の霧が晴れるかと思った。冷蔵庫を開いて、ペットボトルを仕舞おうとした時、冷蔵庫の中央に何か入っているのが見えた。取り出す時、どうして気付かなかったのか分からないくらい、それは異質を放ってそこにある。柴田は黙ったまま、それにゆっくり手を伸ばした。 「・・・しずか」 思わず名前が口から零れる。それはプラスチックの容器に入った淡い黄色のプリンだった。見ればそれが既製品ではなく、手作りなのだとすぐに分かる。そういえば、逢坂は見慣れない手提げ袋を持っていた、あれに入っていたのだろうか。冷蔵庫の中にはふたつプリンが残されている。これを自分と食べようと思って、あそこに蹲って待っていたのだろうか。柴田はそれをゆっくり冷蔵庫に戻して、ぱたんと扉を閉めた。言わなければいけないことは沢山あった、きっと。氷川に独立の話をされたことも、休みが貰えそうだから旅行にでも行こうということも、ごめんもありがとうも全部、全部まだ言えていない。 (畜生、なんで、こんな大事な時に、アイツまた、逃げやがって) 柴田は床の上に放置されていた鞄を取り、中から携帯電話を取り出した。時間は3時を回っている。関係ない。逢坂の電話番号を探すと迷わず発信する。耳に当てると、発信音が鳴るばかりで応答はない。暫くして留守番電話サービスに接続された。 「シカトか!いい度胸だな・・・」 リビングの真ん中に立ち、ひとりで呟いて、柴田はくくっと笑い声を漏らした。足の指がフローリングを蹴る。どこもかしこも痛いままだった、柴田は廊下を走って玄関に並べられた靴に適当に足を突っ込んだ。そうして玄関の扉を勢いよく開く。 「うわっ」 開いたところで近くから声が聞こえて、柴田は振り返った。閉じた扉のその隣に、酷く顔色の悪い逢坂が立っていた。柴田と目を合わせると、あからさまに動揺して目を泳がせる。何か考えていたようだが、体をくるりと半身にさせると、そのまま柴田に背を向けて走り出した。 「しずか!」 叫ぶとまた肋骨がきしんで嫌な音を立てる。急に立ちくらみがして、柴田は目の前の柵に思わずしがみ付いた。逢坂は柴田の呼び声に足を止めて、恐る恐る振り返った。振り返ったところで、柴田は自分をきっと睨んでいるのだろうと思ったけれど、柴田は柵にしがみついた格好で俯いて、荒く呼吸を繰り返している。思わず逢坂は柴田に駆け寄った。手を差し伸べようとして、体が軋む。逢坂の頭の中に、額に脂汗を浮かべて、いたいと呻くように呟いた柴田の顔が過ぎって、急に体が動かなくなる。 (俺は、もう、侑史くんに、何も言えない、言う権利がない) ふっと柴田が逢坂の気配を感じて目を上げる。 「・・・しずか」 名前を呼ぶと逢坂はまたあからさまに動揺して、視線を反らしたまま足をゆるゆると後退させた。柴田は片手を伸ばして逢坂を捕まえようとしたが、酸素の足りない頭とぼんやりする視界で距離感が分からず、右手は空しく宙を切った。逢坂はその腕が頼りなく垂れ下がるのを見ていた。抱き締めたくても支えたくても、自分にはその権利がない。どうして足は後ろには動くのに前には動かないのだろう。どくどくと脈打つ音が耳の傍でしている。気を抜くと目から涙が零れそうで、逢坂はただそれに焦燥しながら耐えていた。柴田の前で自分が被害者みたいな顔をして、泣いてはいけないと思っていたから。 「なに、やってんだ、こっちこい」 「・・・」 「何とか、言えよ、ばか、お前のせいで、どこもかしこも、痛くて、息すんのも、苦しい」 「・・・侑史くん・・・ごめんね」 逢坂は勇気と、自分の中の何か他の名前のつかないものを絞り出すつもりで、そう呟いた。それが限界だった。柴田は額に汗を浮かべたまま、ふっと顔を上げた。逢坂の頬が嫌な予感と雰囲気を器用に察知して引き攣る。柴田はもう一度片手を彷徨わせるみたいに逢坂の方に伸ばした。それを捕まえようとして腕が勝手に動く、動くけれど柴田のそれを結局逢坂は掴むことが出来ない。 「馬鹿が、それで終わりに、するつもりかよ」 「・・・だって」 「クソが。そんなん、で、許すと思ってんのか」 「・・・―――」 柴田は柵を握った手に力を込めて、がっと勢いをつけて体をそこから離した。ふらつく足で逢坂に近寄ると、ずずっと足を後退させる逢坂の腕をそれより速いスピードで強く掴んだ。びくりと逢坂の体が跳ねる。そのまま柴田はぎゅっと逢坂を正面から抱き締めた。 「・・・もっと、言うことあるだろ・・・他に」 「・・・ゆう、しくん・・・」 「俺は、あるよ、しずか、お前に、言うこと、沢山」 「・・・―――」 お前は?と掠れた声で聞いた柴田に応えるみたいに、逢坂の両腕が柔らかく柴田の体を包んだ。

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