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第16話

外は凄く寒いのに、寝巻代わりのTシャツしか着ていないその人は余りにも外の景色と馴染んでいなくて異質だった。抱きとめた体が熱くて、きっと熱があるのだろうとぼんやり思った。ぎゅうぎゅう体を夢中で締めた腕が、微弱に震えているのに気付くのに、そしてしばらくかかった。柴田が滅茶苦茶な暴言を振り回しながら、それでも一生懸命向き合おうとしてくれているのは痛いほどよく分かった。そういうことが苦手な人であったから、やり方が分からない分真っ直ぐで目を反らしたいほど単純で分かりやすかった。けれど逢坂にはどうして柴田が、そんなに躍起になっているのか分からなかった。震える体を幾ら抱いてもまだ、逢坂にはよく分からなかった。どうしようもない子どもで惨めな自分のことを、どうしてそんなに一生懸命に捕まえて、一生懸命に許そうとしてくれるのだろう。逢坂は腕を解くべきだと思いながら、頭の冷静な部分で分かっていながら、どうしてもそれが降り解けない。柴田の手がどんどん自分の体に食い込んで痛い。そうやって強く締め付けて、逃がさないように柴田の方がどうして躍起になっているのだろう。こんなにどうしようもない自分の為に。 (体あつい、侑史くん) 額に張り付いた髪の毛を避けて、逢坂はそこにそっと手を寄せた。汗が浮いている。じわっと体温がそこから伝わってくる。柴田はいつも低体温だったから、そんなにはっきり温度は伝わるのが珍しかった。逢坂は慌てて腕を解こうとして、また柴田に締められて動けなくなる。 「侑史くん、体熱いよ、熱があるんだ、きっと」 「・・・はは、どうりで・・・ぼんやりする、わけ」 焦点の合わない目で、笑った柴田の声が途切れる。 「離して、はやく、薬飲んで寝たほうが良い」 「命令すんな、誰のせいだと、思って」 「・・・ごめん、お願いだから」 困惑して逢坂が力なく呟くのを、柴田は俯きながら聞いていた。腕を掴まれる。ずるりと逢坂の体からそれが離れて、出来たスペースに急激に冬場の風が入り込んできて寒い。ふらつく体をすぐに逢坂が支えてくれたから、倒れずに済んでいる。逢坂がずるずる柴田を引き摺るみたいにして、部屋の中に入って行くのを見ながら、柴田は体から力がどんどん抜けていく気配がした。 「しずか、また、にげ、て」 「もうどこにも行かないから、お願いだから早く寝て」 「うそ、お前・・・すぐウソ、つく、から」 ずずっと柴田が足を引き摺る。短く呟かれた柴田のそれに、思うところが幾つもあって、こんな時くらい黙っていてくれたらいいのにと逢坂は後ろめたい気持ちとともに思った。柴田は嘘が嫌いだ、そんなふうに誠実に生きることが出来たらきっと素晴らしいと思うけれど、世の中には必要な嘘だっていっぱいある。真実だけが自分の身を救ってくれて、自分の身を助けてくれるわけではない。逢坂は如何して自分よりも長く生きている柴田がそれを知らないでいるのか、またはそれを信じられずにいるのか分からない。このままではずっと分からないままだ。真中と出会った時に本当のことを言おうとした柴田の伸びた背筋を思い出して、逢坂は震えた。あの腕を取って止めていなければ、もしかしたらこんな風に深夜にくだらないやりとりなんかしなくて良かったのかもしれない。それでもきっと逢坂はそれを選ぶことは出来ないだろう。それに短く舌打ちをして、逢坂はぐいと柴田を抱き上げた。相変わらず軽い体だった。もう抵抗する元気がないのか、柴田の体から力が抜けてだらっとしている。先程抜け出した寝室にまた戻ってきて、逢坂がきっちり柴田の上に布団をかける。 「薬、どこにあるの?っていうかあるの?」 「・・・ない・・・たぶん」 「分かった、じゃあ近くのドラックストア行って買ってくるから。ちょっと待ってて」 ベッドを離れようとした逢坂の腕を掴んで柴田が止める。困った顔をして逢坂は振り返った。柴田の開いた口から短く息が漏れて、眉間に皺が寄る。 「・・・侑史くん」 「お前、また、にげ・・・」 「逃げないよ、ごめんね、もう逃げないから。薬買ってくるだけだから」 「開いて、ねぇよ、こんな時間・・・」 ふと時計を見やると4時が近い。こんな時でも柴田の思考回路は冷静な部分でひどくまともで嫌になる。逢坂はどこにも行くところがなくなって、仕方なくベッドの側に腰を下ろした。本当はこんなに傍で苦しむ柴田のことを、長い間見ていたくなかった。そういう意味で確かに逢坂は、一度逃げ出そうとしたのかもしれない。考えながら自分の卑怯さと惨めさに身震いする。それが熱に浮かされた柴田に伝わったかもしれないことが、本当は一番怖い。そこで逢坂が動かなくなっても、それでもまだ柴田の手が、しつこく腕を掴んでいる。一体何にそんなに怯えているのだろうと、思いながら逢坂はその手をぽんぽんと上から叩いた。 「侑史くん、俺ここにいるから、しっかり寝て」 「・・・しずか」 ふっと柴田の手が緩んで、逢坂はそれを掴んだ。熱い手だった。 「なに」 「ご飯、残してごめん」 「・・・え?」 握った手からふっと力が抜ける。柴田の顔がこちらを向いて、薄く開いた目が濡れているのとぶつかる。一体彼が何を言っているのか、逢坂には分からなかった。逢坂がここを一度逃げるように帰った日、余計なことを言って柴田を怒らせた日、そう言えば柴田は珍しく逢坂の作った夕食を半分くらいしか食べなくて、もういいと言ってバスルームに消えた。そんな逢坂ですら忘れかかっていたことを、柴田は覚えていて、それに心を詰まされていたのだ。ひくりと柴田の手を握っていた手が震えて、逢坂は泣きそうになって慌てた。今ここで柴田の目の前で、勝手に感傷に浸って泣いている場合ではない。 「あと・・・プリン、ありがとう・・・あとで絶対食べるから・・・それから・・・あと・・・」 「侑史くん」 「ごめん、全然、思い出せない・・・言いたいこと、いっぱいあるのに」 「もういいよ、お願いだから寝て。もう、分かったから」 祈るような気持で、最早祈るような気持で思って、逢坂は柴田の手の甲にキスをした。苦しそうな柴田の表情が一瞬緩んで、それからゆっくりと目が閉じられた。逢坂はそれを見ながらほっとして、ゆっくり柴田の手を離した。辺りはまだ暗く染まっていて、もうそろそろ夜が明けようとしているはずなのにそれを感じさせないほどの暗闇で、逢坂はベッドの側に座ったまま頭を垂れて思った。柴田が言おうとした全てのことを、考えていた。はじめて会った日のことを、はじめて笑ってくれた日のことを、はじめて名前を呼んだ日のことを、はじめてこの部屋に入った日のことを。そしてはじめて柴田が自分の重くてどうしようもない気持ちに気付いた日のことも、頭を撫でて慰めてくれたことも、許されたことも、恋人だと言って笑ったら、照れたように俯いたことも全部、克明に覚えている。柴田とのことをひとつも、逢坂は忘れることはないだろうと思った。今日の柴田の手の熱さのことも、体の熱さのことも、それなのに外は信じられないくらい寒かったことも全部。 (ごめんもありがとうも、本当は俺が言うことだ) (俺が言わなきゃいけないことだ) (侑史くん、俺はもう逃げない、逃げないよ) 逢坂は暗闇に放り投げられた柴田の手を掴んで、もう一度手の甲に口づけた。

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