17 / 32

第17話

朝がきた。一睡もせずに朝を迎えたのは、いつぶりだろうと考えながら、逢坂はぼんやりと眠る柴田の顔を見ていた。いつからだったか、もう眠っている間、柴田が眉間に皺を寄せることはなくなった。手を伸ばしてそっと額に手をやる。昨日感じたはっきりした熱は引いていた。逢坂はほっとして、毛布に半分顔を突っ込むようにして、首を回して柴田の顔を見ていた。柴田は今日も仕事に行くのだろうか、仕事に行くつもりならばそろそろ起こさなければいけない、けれど柴田の体のことを思うと起こすのも何だか気が引ける。半分くらいは自分のせいだけれど。夜中の自己嫌悪をまだ引き摺りつつ、逢坂は手を額から頬に移してそこを指の腹で何度か撫でた。柴田がくすぐったそうに身じろぐ。起こさなければ、けれど。 「・・・んっ・・・」 「・・・おはよう、侑史くん」 ゆっくり目を開けた柴田と視線を合わせて、逢坂は出来るだけにこやかに見えるように笑った。柴田は寝起きのぼんやりとした目をしたまま、ふっと体を起こした。そんなに急に動いて大丈夫なのか、痛みの分からぬ逢坂だけが、見ているだけでハラハラする。 「侑史くん、熱もう下がってるみたいだけど、大丈夫?」 「・・・あぁうん、だるいけど・・・」 はぁと深く息を吐いて、柴田は年中凝っている肩に手をやった。首を回すと、骨がぱきぽきと軽快に鳴る。ちらりとベッドわきに座ったままの逢坂を見やると、眉尻を下げた情けない顔をしてこちらを見上げているのと目が合う。朦朧とする意識の中で、必死に逢坂をそこにつなぎとめた記憶だけは残っていた。朝の明るい光に晒されて、今更ひどく恥ずかしいような気がして、柴田は逢坂から目を反らして口元を隠した。何を言ったかあまり覚えていないけれど、熱のせいだと逢坂が理解してくれていたらいいのにと思う。ベッドから降りようとして、足を床に着くと、それだけで体が軋んでびりびりと痺れるような痛みが足から這い登ってくる。眉を顰めると二の腕をぎゅっと握られて、体の半分が少し軽くなった。 「侑史くん、大丈夫?」 「・・・ごめん、ありがとう」 口からぽろりと言葉が零れる。それを聞くと、何故だが逢坂が少しだけ悲しい顔をした。 「侑史くん、今日仕事行くの?大丈夫?」 「うん、行かなきゃ。じゃないとまた休み取り辛くなる・・・」 「え?休み?」 ソファーの上に座って、ふうと息を吐く。そういえば何の話もしていないのだと思い出して、柴田は逢坂が持ってきてくれた服に着替えてから鞄を引っ張ってきて、中から旅行雑誌をテーブルの上に並べた。逢坂が一つ手に取り捲りながら、首を傾げる。 「なにこれ」 「温泉でも行こうと思って、休みとって」 「へー・・・いいね」 「だからしずか、お前もこれ見て、何処行きたいか考えといて」 「・・・―――」 突然、逢坂の手からばさばさと音を立てて、旅行雑誌が床に落ちる。柴田は何でもないふりをして手を伸ばしてそれを拾い、机の上に置いた。ちらりと時計を見上げると、まだ少し出勤までには時間があった。今日は会議しか予定が入っていないから、他の所員には悪いがさっさと帰って家で休んでいたほうが良い。体はどこもかしこも痛いし、頭も回らないし、きっと仕事になんかなるはずがない。それまで分かっているのに休めないなんてどうかしていると思っていたけれど、隣で俯く逢坂のためにも今日はいつもと変わらないように過ごさなければならないと、柴田は半ば強迫的にそう思う。 「ゆうしくん」 「なに・・・―――」 見やったそこで、逢坂が泣きそうな目をして俯いている。こういう時にそういう顔しかできない逢坂のことを、柴田は思い出していた。ここで最後にするつもりで逢坂が丁寧に伝えたそれに、柴田が頷いた時も、多分同じような泣きそうな困った顔を逢坂はしていた。柴田は手を伸ばして、逢坂の金髪をぐしぐしと撫でた。撫でて酷く満足した気持ちになった、こういう話がきっとしたかった、ふたりで。きっと逢坂が喜んでくれると思ったから、こういう話がしたかった、もっと。沢山色んな話をして、沢山色んなところに行って、沢山見たいものがあった。まだまだ沢山、ふたりで居る時間は長いと思ったから。 「辛気臭いカオすんの止めろ」 「・・・うん」 「今日、お前学校?」 「うん」 「じゃあ終わったらウチ来い、何処行くか決めよう、ふたりで」 逢坂が俯いていた顔をすっと上げて、にこっと笑った。目元が酷く赤い。柴田はそれを見ながら、やっと安心できていた。 「じゃあ、俺、仕事行ってくるから」 旅行雑誌を全部テーブルの上に出して、すっかり軽くなった鞄を持って、柴田はゆっくり立ち上がった。鞄をかけた肩が痛い。逢坂がぐしぐしと目元を拭いて、柴田に合わせて立ち上がる。そして後を追いかけるように、柴田の後をついてくる。 「・・・無理しないでね」 「うん、分かってる」 玄関で靴を履いて振り返ると、逢坂が情けない顔をして立っている。手を伸ばしてまた髪の毛をぐしゃぐしゃ掻き回すように撫でると、逢坂は少し困った顔をした。 「・・・侑史くん」 「うん?」 「キスしてもいい?」 困った顔のまま、逢坂がそう言ったのが、柴田は少しだけ意外だった。逢坂の手が伸びてきて、柴田の肩を優しく掴んでそれがするすると動いて二の腕に降りる。昨日此処で引き摺り倒された記憶が、まだ鮮明に残っている。おそらく逢坂の頭の中にもそれははっきりと残っているだろう。そんな顔をするくらいなら、そんなことを言わなければいいのにと柴田は思いながら、二の腕で止まった逢坂の手のひらを何気なくすっと見やった。震えている。真中のことを未だに呟く時に、逢坂が何か怯えるように俯くことも震えることも、柴田は知っていた。知っていたけれど、それを見ないふりをしていた。どうして一度言ったことを、何度も何度も言って聞かせなければいけないのだろうと思っていたから、震える逢坂に優しい言葉も慰めも、何にもかけてやらなかった。その代償なのかもしれないと思いながら、柴田はそっと自分の二の腕を掴む逢坂の右手を包んだ。 「・・・いいよ」 呟くと逢坂の睫毛が揺れて、するりと柴田の肩から逢坂の手が外れた。そしてそっとそれが顔の前に降りてくる。見る間に柴田の目線は逢坂の手のひらでいっぱいになる。 「目、閉じて」 逢坂が呟く。柴田はゆっくりと目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!