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第19話
「閑」
後ろからそう声をかけられて、反射的に振り返るとそこで手を上げて笑っているのは月森だった。友達の多い月森は、いつも誰かと一緒に居ることが多いけれど、今日はどうしたのか珍しくひとりだった。月森はこの授業を取っていただろうか、見るのははじめてだけれど、考えながら長机の上に置いてある鞄を退ける。月森は人好きのする顔をにこにこさせて近寄ってくると、長机をくるりと回り込んで逢坂の隣に座った。まるでそこが自分の為に空けられているスペースであると元々知っているみたいな所作だと思った。
「何読んでんの?」
「あぁ・・・うん」
丁度開いていた雑誌を月森に引っ張られて、パタンと机にそれを倒す。開いたページは丁度、ヒノキの露天風呂の写真が大写しになっているところだった。月森はそれに目を近づけてまじまじと見た後、何かを確かめるみたいに逢坂を見上げた。
「なにこれ、温泉行くの?」
「うん」
「あー・・・カレシ?と?」
「うん・・・たぶん」
「なに、多分って」
言いながら月森は笑って、逢坂の手からひょいと雑誌を奪うとそれをぺらぺら捲りはじめた。同じことを伊原がやると身勝手と思われるところ、月森の動作はどうしてこんなにいちいち軽くて引っかかるところがないのだろうと、逢坂はページを捲る月森の長い指を見ながら思っていた。
「へぇ。喧嘩は?もう仲直りしたの?」
「・・・たぶん」
「また多分なの?」
また月森が笑って、何となく逢坂は居心地が悪いような気がしていた。あれで良かったのかどうなのか、自分は素知らぬ顔をして許されていていいのかどうか、勿論思わなかったわけではなかった。けれど俯いてこんなことで許すかと呟いた柴田に、それで良いのか、これならば許されるのかと尋ねることは出来なかった。多分やっぱりどうしても、そんなことで許されるわけないと分かっていても、気持ちのほうがずっとずっと重くて痛くて、許されていたかったからなのかもしれない。
「へぇ、いいねぇ」
「・・・何処行きたいか考えとけってさ」
「ふーん・・・」
月森が曖昧に相槌を打って、ふっと視線を前に向ける。
「そういや、この間、サエに会ったよ」
「・・・へー・・・元気だった?」
「うん、でも会った瞬間、月森聞いてよー!逢坂がさぁ!って泣きついてきた」
「・・・ふーん」
「無視してるの、冷たいね、閑」
「冷たいって言うか、礼儀だよ、礼儀。俺は今の人を大事にしたいから、サエに構ってるの良くないでしょ」
「またそんな真面目なこと言って。いいじゃん、トモダチに戻れば」
「戻れないよ、俺は心知とは違うから」
「なにその引っかかる言い方」
はははと月森は笑ったけれど、逢坂は本当に月森がその時笑っているのかどうか、ちらりと見やって確認しないと信じられなかった。それが酷く乾いた笑いに聞こえたのかもしれないし、自分の呟いたそれは月森を突き刺し傷つけるための道具にしかなりえないことが分かっていたからなのかもしれない。それを快活に笑い飛ばした月森は、その逢坂の暴力に気付いているのか、気付いていてスルーしているのか、それともいい意味での鈍感さが彼にそれを気付かせていないのか、逢坂には分からなかった。
「閑はそうやって」
「・・・なに」
「その人の事しか大事にできないの、トモダチとか家族とか、他にも大事にしなきゃいけないものはないの」
「・・・―――」
ふっと月森の目が動いてこっちを見る。射抜くような視線に、びくりと肩が無条件で震えた。真っ直ぐで目を反らしたいと思った。皆月森にみたいに生きられるわけじゃないのだと、月森相手に言っても仕方がないことを、それが唯一の反論の方法みたいに振りかざしてしまいそうだった。月森みたいに生きられないのは、その他大勢のせいであって、それは絶対的に月森のせいではない。
「俺は嫌だな、そういうの。しずかのことは友達だと思ってるし、俺は大事にしているつもりだし」
「いや、別にそう言うんじゃ」
「俺だって大事にされたい」
ふっと言葉を切った瞬間、周りの音が全部聞こえなくなって、今更逢坂は、今日はどうして月森はひとりでいるのだろうと思った。最近隣に伊原が張り付くみたいにくっ付いているし、それでなくても月森は友達が多いからひとりでふらふら歩いていることなんてなかった。それがどうして今日は図ったみたいにひとりでいるのだろう。考えながら今自分と向き合っているのだから、必然的にひとりではなくなっているのかもしれないが、と逢坂は思った。その言葉の意味を探ったところで、深みには何も落ちていないことは分かっていた、お互いに。しかしそういう表現は相手に誤解されても可笑しくはない、それは恋愛感情以外の何かで間違いないのは分かっているけれど、と思いながら、逢坂はゆっくり月森から視線を外した。月森に友達が多いのも、何だか皆が彼には本当のことを話してしまうことも、そして自分も、何もかも全部それに集約されている気がして不思議だった。
「・・・心知ってさ、人タラシだよね」
「え?どういう意味?」
「いや、いい。ごめん、僻んだ」
「急に、どうしたの」
「難しいね、俺、だってその人のことだって、上手に大事にできてないんだ、だから喧嘩するし、怒られるし」
「うん」
「だから他に、気を回してる余裕なんて、なかったり、するのかな」
「・・・そうか」
「サエともちゃんと会って話すべきなのかな、でももうメールとか電話してこなくなったから、勝手に良いのかと思ってた」
「分かんない、でもサエは寂しそうだったよ。閑にはなくても、もしかしたらサエには言いたいことが、まだあるんじゃないかなぁ」
『ごめん、全然、思い出せない・・・言いたいこと、いっぱいあるのに』
昨日熱に犯されながら、柴田が言ったことを、その時逢坂は月森の話を聞きながら何故だか思い出していた。柴田の他に言いたかったこととは、一体何だったのだろう、それから目を背けたり、耳を塞いだりしなくても、もういいのだろうか。都合の良い時の方が良かったなんて、その方が何も考えなくて楽だったと、一度でも思ったことを後悔した。自分ばかりが好きでいて重たくて辛かったけれど、弱った時に伸ばした手だけでも掴むことが出来て良かったと思った。それだけで満足だった。それだけで満足にしておくべきだったのかもしれない。何もかも。ひとつ望めばまたひとつ欲しいものが増えて、そうやってどんどん欲張りになっていく自分に辟易がする。辟易しながらまた手を伸ばすのだ、懲りずに。
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