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第20話

静かだった部屋の中に急にインターフォンが響いて、柴田は見ていた雑誌をテーブルの上にぽんと投げた。そのまま廊下を通って扉を開く。開けた扉の隙間から、すっと冷たい風が吹き込んでくる。外には先程電話で帰宅を伝えた逢坂が立っていて、柴田と視線を合わせると曖昧な表情で笑った。何となくじくっと胸の奥が痛んで、ざわざわと気持ちの悪い感覚がした。 「おう、早かったな」 「うん、近くにいたし。お邪魔します」 丁寧に言いながら、逢坂が玄関で靴を脱ぐ。そんなこといつも言っていたっけと思いながら、柴田はその背中をじっと見ていた。逢坂の顔を真正面から見るのは、まだ少しだけ勇気と時間がいるような気がした。逢坂が肩から鞄を外しながら、ゆっくり歩いてリビングまで辿り着いた。柴田は逢坂を追い越すと、先にテーブルの前に座って、呼んでいた雑誌を手に取る。 「どこにするか、考えた?」 「あー・・・うん」 「俺、絶対旅館がいい、旅館!」 テーブルの上は乾いている。また晩御飯を食べていないなと思いながら、逢坂はコートを脱ぐと椅子の背もたれにかけて、椅子を引いてそこに座った。柴田の部屋に来るとまずそれを一番に確認するのは、最早自分の仕事みたいになっている。そんな逢坂の心中なんてまるで察する様子なく、柴田が熱心に見ているのは、部屋にひとつずつ露天風呂がついている旅館のページだった。 「彼女がホテル派でさ、付き合ってた時はずっとホテルだったんだけど、俺は旅館が好きだなー」 「・・・侑史くん」 「なに、しずかもホテル派?ホテルつまんなくね?」 「侑史くん、あのね、俺、侑史くんが渡してくれた雑誌一通り見たんだけど」 「お、どっか行きたいとこあった?あんまり遠いとこは無理だぞ」 珍しいくらいにこにこと楽しそうにして、柴田が言う。逢坂はそれを見ながら少しだけ、胸のあたりがざわざわするのを知らない振りすることが出来なかった。 「あのね、俺、ここに載ってるようなとこ、高くて行けない」 「・・・え?」 「だって一泊5万もするんだもん、侑史くん、俺、前も言ったと思うけどさ・・・」 「なんだよ、そんなこと気にすんなよ」 「いや、だって」 「いいよ、俺が出すから、全部」 「・・・―――」 握った手がテーブルを叩いて、どんと音がした。骨から振動がじわじわ伝わってきて、逢坂ははっとして目の前の柴田を見やった。旅行雑誌を開いたまま、柴田はこちらを見ている。シルバーのフレームの眼鏡の奥の目を、大きく開いて驚いた顔をしている。 「・・・俺、そういうの、は、いやだ」 「そういう・・・の?ってどういう・・・」 「侑史くんが、働いて、金持ってるのは分かるけど、俺、自分のは自分で出すから」 そこまで言うと服屋でのやりとりを柴田も思い出したのか、あぁと口の中で小さく呟いた。だがまたすぐに雑誌に目を戻してしまった。そしてずれた眼鏡のフレームをついと指で触る。伝わらなかったのかと思って、少しだけ逢坂は焦った。 「別にいいって、気にすんなよそんなこと。お前学生なんだし」 「気にするよ・・・だって」 「甘えときゃいいじゃん、俺が良いって言ってるんだから」 「やだよ、なんで。俺は、だって」 「何ムキになってんの、しず」 ふっと柴田の目が上げられて、それが逢坂にぶつかる。逢坂は握った手に力を込めた。ぎちっと手の中で爪が手のひらに食い込む感触がする。柴田には分からないのだと思った。その目に悪気は全くないから、柴田はきっとこういう感情を理解できないのだと思った。その前で酷く幼稚で滑稽なことをしているような気がして、逢坂はそれに嫌でも頷いていたほうが、幾分もマシだったのではないかと一瞬思った。服屋でのやり取りを覚えているはずなのに、こんな高級宿泊施設ばかり載っている雑誌を渡してくるあたり、柴田は何にも考えていないのだと思った。逢坂は雑誌を捲りながら今日一日そればかり考えていた。それともそんなことはどうでもいいと思っているのか。逢坂は自分が胸を詰まされていることに対して、柴田がひとつも心を砕いていないことに半ば絶望しながら、またうやむやにされる前に今度はしっかり伝えなければと思っていた。 「やだよ、俺は、侑史くんと、フェアでいたい、よ」 「・・・え?」 「だってそういうのが、付き合ってるって、ことでしょ」 「・・・あぁ・・・」 言いながら失速して、逢坂は視線を下げてしまった。柴田の唇からふわっと息が漏れるみたいに、不安定な相槌が零れる。彼と自分の間にある隔たりの大きさを、そんなことで気づかされるなんて思ったことがなかった。都合の良い軽薄な男はここで柴田とセックスしていれば良かった。それがその男の役割で、それ以上でも以下でもなかった。だからこんなことで頭を悩ませる必要なんてなかった。これが付き合うってことなのだと逢坂は思った。苦しかったけれどそういうことに頭を悩ませてもいいのだと思ったら、少しだけ嬉しかった。柴田の生きている時間のことを考えて、それが自分の時間とどう違うのか考えて、それがぴたりと合う時間のことを考えて、それでも良いのだと思ったら、苦しかったけれど嬉しかった。だから柴田がそんなこと気にするなと言ったのを、逢坂は簡単には飲み込めなかった。そうやってひとつひとつのことをちゃんと考えること、躓くこと、悩むこと、そんなことも全部、柴田とのことに繋がっている大切なことなのだと思ったら、そんな風に軽々しく扱って欲しくはなかった。自分は重たくもそれを大事にしているのだから。 「・・・分かった、ごめん」 「・・・うん」 「この間も、お前ずっと気にしてるの分かってたけど、それずっと考えてたの?」 「まぁ、うん、そう、かな」 「真面目だな、っとに」 「だって!そんな・・・」 「あー、分かった、分かったから」 また声を上げた逢坂をまるで宥めるみたいに、柴田は手を伸ばして逢坂の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そうやってやっぱり子ども扱いをしている、子どもには違いないから上手く反論できないけれど、考えながら柴田を見やると、口元が少しだけ笑っていた。それが何より雄弁に全てを物語っていた。逢坂はそれを見て少しだけ安心した。やっと安心できたような気がした。 「でも、俺とはなかなかフェアにはなれないと思うよ?しずか、俺の年収知らないだろ」 「知らない、幾ら貰ってるの」 「聞かないほうが良いと思うぞ。あと、俺安い宿に泊まるとかもできないから」 「・・・なにそれ」 「お前、頑張ってバイトして金貯めとけ。さ、何処にしようかなー」 言いながら柴田が旅行雑誌を捲る。

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