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第22話

旅館を出て少し進むと、部屋から見えた海まで意外とすぐだった。徐々に日が落ちて暮れかかっている海は真っ黒で、波が寄せて引く音くらいしか聞こえない。それを最初に耳で捉えて、それから鼻が海から吹く潮風の匂いを嗅ぎ取る。あ、と思った瞬間に隣を歩いていた柴田が急に走り出して、逢坂はその背中をやや速足になって追いかけた。すると柴田が足を緩めて振り返る。 「しずか、海だ!」 相変わらずはしゃいだ声をしている。うん、と相槌を打った声が、彼に聞こえたかどうか分からない。柴田は前を向いてまた走り出した。インドアで運動嫌いの柴田は、全速力で走っているつもりなのだろうが、もともとそんなに速くは走れない上に、砂に足を取られてみるみるうちに失速していく。少し足を速めたら、すぐその立ち竦んでいる背中に追いついた。 「侑史くん?」 「・・・さむい」 奥歯をがちがち言わせながら、青い顔をして俯いて柴田が呟く。コートだけしか羽織ってきていないのがいけなかったのか。そもそも自分の寒がりの体質に気付いているなら、もう少し防寒に気を配るべきだ、考えながら逢坂は首に巻いていたマフラーを緩めて取ると、後ろから柴田の首にくるりと巻きつけた。柴田が振り返るのに前からもう一度形を整えてきゅっと結ぶ。 「はい」 「・・・ごめん、しず、ありがとう」 「うん」 「お前は?寒くない?」 「俺は大丈夫」 首を振って逢坂が口元だけで笑うと、柴田は安心したみたいに笑顔になった。そうやってちゃんと、何に対しても平等に、お礼を言えるところが好きだった。ごめんもありがとうも、柴田は実に飾らずにさらりと言う。それに時々出くわした時に、逢坂は柴田のことが好きだなと確信するように思うし、また一段と好きだなと上塗りするように思うのだった。歩き出そうとする柴田の手を引っ張って引き寄せると、唇にちゅっと触れるだけのキスをする。吃驚したように柴田の体がまた震えて、砂地の上を足が迷ったように動いて逢坂から離れる。怒ったかなと思ったけれど、柴田は少しだけ困った顔をして逢坂からすっと視線を反らした。 「お前、外だぞ」 「分かってる、でも真っ暗だし、人もいないし」 「・・・まぁ、いいけど」 思ったよりあっさり許されて、少しだけ拍子抜けした。今のキスのタイミングは柴田的に外していなかったのかなと思ったけれど、それを確かめる術は逢坂にはない。腕を離すと、柴田がゆっくり歩きだす。その背中を追いかけるみたいに、逢坂も細かい砂を踏む。 「海なんて久しぶりに見た、でも、真っ暗だな!」 はしゃいだ声に戻って、柴田が海を見ながら笑い声を立てる。夜の海は真っ黒い大きな水たまりみたいで、部屋から見た時の水面が光って綺麗な色も全部なくて、ここまで来たのに少しだけ残念だなと逢坂は思った。それにしても柴田の声は嬉しそうである。 「うーん、そうだね。明日、また見に来ようよ」 「うん。お前は?友達と海行ったりすんの」 「・・・あー・・・うん、今年は海の家手伝ったり、したなぁ」 「あ、そういや久しぶりに会った時すげぇ焼けてた時あったな、あれ?」 「うん、多分。サークルの先輩がやるって言って」 そういうことをいちいち、柴田は覚えていたりすることに少し驚きながら、逢坂は柴田の方に視線を向けた。柴田は前を向いており、視線はこちらにない。 「へー、そういやしず、お前サークルってなに、どこ入ってんの?」 「えー・・・」 「何だよ、隠すなよ、別に隠すとこじゃないだろ」 「うん、まぁ、んー・・・ビリヤードサークル」 「なにそれ!チャラ!」 はははと柴田が指を指して声を上げて笑う。それに思わず眉を顰める。別にビリヤードに興味があったわけではない、何となくサークルには入ったほうが良いと思いつつ、今更何かはじめたり、きつい練習があったり頻繁に集まりが有ったりするのは面倒臭いと思って、結局その時よくつるんでいた友達と同じサークルに入ったら、そこがビリヤードサークルだっただけの話だ。 「だってそう言う・・・と思って!でもビリヤードとかしないんだよ、別に」 「だから結局飲み会サークルってことだろ?はぁー、大学生っぽい!」 「んー・・・まぁそうなのかな?」 「そうだろ、はぁ、いいなぁ、楽しそうで」 目を細めて懐かしそうな顔をして、柴田が言う。 「なにそれー、侑史くんは何入ってたの?」 「え、俺?テニス」 「テニサーのほうがチャラいじゃん!人のこと言えないじゃん!合コンばっかしてたんでしょ!」 「してねー、俺は頑張ってフツーにテニスしてたわ。下手くそなりに。ははは」 「嘘だぁ」 「嘘じゃねーし」 はははと柴田が笑って、逢坂にはそれが酷く眩しく見えた。思わず目を細めて黙ると、ふっと柴田がこちらを見やるのと視線が絡む。 「なに?」 「んーん、俺たち、まだまだ知らないこといっぱいあるなって思って、お互いに」 「あー・・・まぁ、そうだな」 「でもこうやって話してたら、いつかそんなこともなくなるのかな。俺、侑史くんのこと全部分かる日が来るかな」 「はは、お前また、怖いこと考えてるな」 「怖くないよ、俺、侑史くんのことは全部知りたいもん」 「はは・・・―――」 柴田の渇いた笑いが潮風に吹かれて消えて行った。逢坂は無意識にその行方を目で追いかけた。追いかけたってなにもないことは分かっていたけれど、追いかけざるを得なかった。 「全部知ってどうすんだよ」 「どうするって・・・うーん」 「全部知ったらしずか、俺に興味なくなるんじゃないの」 「えー、そんなことないよ、絶対」 「そう?ならいいけど」 はははとまた声を上げて柴田が笑って、それが真っ暗の海に溶ける。

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