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第23話
柴田のスニーカーが砂を蹴って、細かい砂がぱっと弾けて地面を這う。
「なぁ、しずか」
「うん?」
「また、俺、休みとるからさ、今度はもっと遠いところに行こうな」
「・・・うん」
「新幹線とか飛行機とか、そういうの使って行こう。海外・・・はちょっと無理だけど」
前を歩く柴田が振り返る。薄闇の中でもはっきりと輪郭が分かる。声のトーンが落ち着いてきて、はしゃいだ仕草も徐々に大人しくなる。その表情が穏やかで、逢坂は安心した。抱き締めたいしキスもしたいけれど、今は我慢と思って手をぎゅっと握る。
「でも、お前あれか、来年就活だな」
「あー・・・うん、そうだね」
「じゃあ、暫くは無理かな。それ終わってからだな」
「・・・うん」
「はは、お前も社会人になるのかぁ。頑張れよ、社会は厳しいからな」
笑いながら柴田がゆっくり歩く、その痩せた背中を見ていた。逢坂はすっと息を吸い込んだ。潮風が肺の中に入ってきて、少し冷たい。
「侑史くん、あのね」
「なに」
「俺、ちゃんと就職決まったら、侑史くんと一緒に暮らしたい」
「・・・―――」
振り返った柴田は、目を大きく開いて驚いた顔をしていた。
「だめ?」
「・・・あー・・・うーん・・・だめ」
すっと顔を背けるようにして、また柴田は前を向いて歩きだした。
「お前さ、自分で働いて稼いでさ、それでちゃんと家賃とか光熱費とか払ってってこと、今までしたことねーだろ」
「・・・うん」
「だから一年か二年はちゃんとそういうこと、自分でやってみろ」
「・・・うん」
「なんて。はは、俺、お前と一緒に住んだらきっと、またお前のこと甘やかしちゃうだろうから、な」
柴田が言葉を切って、急に辺りは静かになる。逢坂は何か言おうと思ったけれど、こんな時何と言うべきなのか分からなかった。
「お前がさ、フェアでいるのが恋人だって言ったじゃん。来る前。あれさ、俺すごい嬉しかったよ。しずかが考えてることが、今のことだけじゃなくてこれからのことも考えてるんだなぁって思ったら、俺は凄い、嬉しかった」
「・・・うん」
「一年か二年、そうやってお前が頑張ったら、その時お前がまだ俺のこと好きで、一緒に暮らしたいって思ってたら、その時は一緒に住もう、な」
「侑史くん、俺は、侑史くんのこと、ずっと好きだよ」
「はは、簡単に言いやがって、お前その何年後、俺幾つだと思ってんの」
俯いて笑った柴田の声が、砂の上に散らばって崩れていく。逢坂はその行方をただ眼で追いかけていた。
「幾つでもいいよ、そんなの関係ない」
「あぁそ。また何年後かにおんなじ言葉が聞きたいわ」
「信じてないなー、俺本気なのに」
「いいんだよ、お前はそれで。別に俺以外に好きな奴出来てもいいんだよ、若いんだから、窮屈に生きるなよ」
痩せた背中で柴田がそう言った。逢坂は少し足を速めて柴田の隣に追いつくと、無防備に揺れている左手をそっと掴んだ。
「侑史くん、そんな風に言わないでよ。俺ってそんなに信用ないの」
「いや、別にそういう意味じゃないよ。っていうか、お前が俺のことすっごい好きなのはビシビシ感じてるから大丈夫だから」
「じゃあなんでそんなこと言うの」
「だって、まだお前若いし、これから沢山色んな人に会うよ、一杯素敵な人に会う、お前のこと好きだって言ってくれる奴も、多分一杯いる。そういうことの選択肢の一つで良いよ、俺は。絶対俺を選ばなきゃいけないことなんて、お前にはないんだ。しずか」
「いやだ、そんなの。俺の傍にずっといろって、言ってよ侑史くん」
はははと、柴田はそれには答えずにただ笑った。逢坂が握った手に力を込めると、柴田もそれをぎゅっと握り返す気配がした。
「和室のある部屋に引っ越そうよ。観葉植物もいっぱい置いたらいいよ」
「枯らすよ、俺、多分」
「俺が水やるから大丈夫だよ、侑史くんのできないことは俺がやるよ」
「はは、お前のできないことは俺がやるの?早起きとか?」
「そうだね、毎日キスで起こしてよ」
「はは、鬱陶しいな、それ」
笑いながらそんな未来が、本当にあったらいいなと思った。あの時、コンビニにふらっとやって来た顔色の悪い客の指が、手のひらに落としていった僅かな電流が、今こんな未来を描いているなんて、きっと誰も想像できなかっただろう。だからそんな夢みたいな話も、きっと何年後かにはそんな話をしたねと笑い合っていられると思った。笑い合っていたいと、逢坂は思った。そこにちゃんと柴田がいることが、ちゃんと隣を歩けていることが、あの頃はただの夢物語でしかなかったけれど、でも今はそれが現実になっていて、手を伸ばしたら柴田がそこにいて、笑ったら照れたように俯いて、それから笑ってくれることが、今は現実になっている、信じられないくらい不思議なことだけれど。あの頃の絶望しては期待していた頃のぐずぐずな自分に言ってやりたい、後少し我慢して頑張ったら、きっと楽しい未来が待っているから、と。
「あ、人がいる」
ふと立ち止まった柴田が、声を上げて逢坂も前方を見やる。確かに遠くに人影が見えた。柴田はコートのポケットを探ると、そこからカメラを取り出して振り返った。
「しずか、写真撮ってもらおう」
「え、なんで、真っ暗だよ?」
「いいじゃん、記念だろ、きねん!」
「えー、明日また明るい時に来た時でいいじゃん、何で今なの?」
「こういうことは思いついた時が一番いいんだよ、ほら」
「っていうかさぁ、マフラー一枚持ってきてないのにどうしてカメラは持ってるの?」
「うるさい、マフラーは鞄の中にちゃんと入ってる!ちょっと、忘れた、だけ!」
「あぁ、そうー」
悠長に歩く逢坂の手を離して、柴田はカメラを持ったまま砂地の上を不器用に走り出した。振り返って呼ぶ。そこで柴田がカメラを持った手を振り上げて呼んでいるのは、それは間違いなく、逢坂の名前だった。
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