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第29話

インターフォンが鳴った。柴田は読んでいた雑誌をテーブルの上に投げて、ゆっくりとリビングを通って廊下を進む。急かすようにもう一度インターフォンが鳴って、その扉の向こうの男にも聞こえるように、大きな声で返事をする。そして内鍵を外して扉を開けた。 「お前何度も鳴らす・・・な・・・」 視線を上げて言葉が途切れる。一瞬誰か、違う人がそこに立っているのではないかと目を疑った。しかしどう見てもそこに立っているのは逢坂だった。逢坂は柴田の驚いた視線から逃れるようにふっと顔を反らす。柴田はその横顔から、目が離せない。 「侑史くん、見過ぎだよ、それより部屋入れてよ」 「あぁ・・・うん、ごめん・・・いや、でも」 お邪魔しますと逢坂が呟いて、俯いて靴を脱ぐ。柴田はそれをじっと見ながらわしわしと逢坂の髪の毛を撫でた。逢坂の髪の毛は出会った時から肩くらいまで長くて、根元から綺麗な金色できらきらしていて綺麗だと思っていた。柴田は一度も本人には言ったことがなかったけれど、逢坂のその若さの象徴みたいな髪の毛が好きだった。それが短く切られて、真っ黒になっている。 「はぁ、しかし・・・お前、思い切ったな」 「そんなにじろじろ見ないでよ、へん?」 珍しく頬を赤くして顔を背けて、これはきっと照れている。髪の毛を触って首を傾げる逢坂を見上げながら、柴田は首を振った。 「変じゃないよ、見慣れないけど」 「・・・よかった」 柴田のその返事を聞いて、逢坂は頬を赤くしたままふふと声を漏らして笑って、何だか柴田も一緒にそれに安心していた。リビングに戻るまでの廊下で、柴田は何度も振り返って逢坂の姿を確認した。いつも金髪の逢坂を見ていたから、目の前の黒い髪をしている男が逢坂の顔をしていることが、柴田にとっては酷く現実感を欠いている。写真で一度茶色い髪の毛をしている頃を見たことがあったが、その時も逢坂の髪の毛は長かった。だからそれなりに違和感はあったけれどまだマシだった。 「でもなんで、急にどうしたんだよ」 「だってもうすぐ、就活なんだもん」 「あ、そうか。だから黒くしたのか」 テーブルの前に柴田が座ると、逢坂も近くに自然に座った。テーブルに肘を突いてからも、柴田はそれをまじまじと見上げた。逢坂はその視線が堪らないようで、せめてもの抵抗でふいと顔を背けたまま、ぼそぼそと柴田の追及に答えることになっている。 「そっか、でもなんか、ちょっと、勿体ないな」 「え、なにそれ、どういう意味」 「俺、お前の長い金髪、結構好きだったんだよね」 「えー・・・そんなこと言われたことない・・・」 「はは、だって言ったらお前調子乗るだろ」 「・・・侑史くん俺の事なんだと思ってるの」 恨めしそうな目で逢坂がこちらを見てくるのが面白くて、柴田はまた声を上げて笑っていた。 「なぁ、ちょっと触らせて」 「・・・いいけど」 釈然としない表情で逢坂が自棄に小さい声で呟く。柴田は逢坂の正面に回り込んでから座り直して、両手を伸ばして逢坂の髪の毛に触れた。長い時はいつ触っても指先から零れてさらさらだと思っていたが、短い逢坂の髪の毛は柔らかくウェーブしている。 「あれ、お前これパーマかけてんの?」 「んー、緩めに」 「ふーん・・・」 逢坂はまだ照れているのか、頬を赤くしたままなかなか柴田と視線を合わせようとしない。 (なんかちょっと真中さんと似てる・・・?気にしてんのか?まだ?それとも俺の気のせい?) 真中も色は真っ黒だが、確か緩めのパーマが当たっていたような気がする。真中の髪の毛をこんな風に無遠慮に触りまくったことはないが、何となく見た目の雰囲気は、真中のそれと似ているような気がした。それを逢坂自身に尋ねていいのかどうか、触りながら柴田は考えていた。 「ねぇ、侑史くん」 「え、あ、なに?」 「まだ触るの、いいでしょ、もう」 逢坂が唇を尖らせて、痺れを切らしたように言う。柴田は手を引っ込めようとして、少し考えてもう一度髪の毛の中に手を突っ込んだ。 「・・・侑史くん?」 「いいじゃん、お前、いつも俺の事散々良いようにしてるんだし、時には触らせてくれよ」 「えー・・・」 それを聞いて逢坂は顔を顰めて、本気で嫌そうな表情を浮かべた。それから何を思ったのか、柴田の両二の腕を掴んでずるずると引き摺ってくると、そのまま柴田を自分の体の上に乗せた。図らずとも柴田は座った逢坂の太ももの上に、向かい合う形で座らせられることになった。 「・・・なにこれ」 「いいよ、好きに触って。俺も触る」 「お前、どこに手入れて・・・っ」 「侑史くんも触っていいよ、俺のどこでも」 「・・・何だその勝ち誇った顔は、ムカつく!」 「ぎゃ!髪の毛引っ張るのなしなし!」 頭を抱えて逢坂が俯いたまま痛い痛いと泣きそうな声を出しているのを、柴田は逢坂の太ももの上に乗った格好のままで見ていた。逢坂がそんな身なりをしながら、本当は真面目にできているのも、何でもよく考えているのも良く知っていた。不意に黙った柴田に気付くと、逢坂は涙目でその柴田を不思議そうに見上げる。柴田は逢坂の真っ黒の髪の毛を撫でて、口元を緩めた。 「頑張れよ」 「・・・うん」 その手を逢坂は取って、何かとてつもなく愛おしいものみたいに、指先にキスをした。今度、それを見ながら柴田の方が赤くなりそうだった。 「約束だからね、侑史くん」 「約束?なんの」 「俺が就職して1年か2年独り暮らししたら一緒に住んでくれるんでしょ!やくそく!」 「・・・あぁ」 「今、完全に忘れた顔してた・・・」 「ばか、覚えてるよ、ちゃんと」 下から見上げる逢坂の睫毛が震えて、ぱちりと瞬きの音までもが聞こえそうな距離だった。自然に唇の端から笑いが零れて、不思議そうな顔をする逢坂の唇に、柴田はそっと触れるだけのキスを落とした。時々逢坂が堪らないみたいに柴田のことを抱き締めたりキスをしたりするみたいに、柴田にも時々逢坂みたいな勢いの良い情熱ではないけれど、ふとした瞬間にもう少しくっ付いていたいとか、今キスしたいとか、そういうことを考える回路が、ひっそりと生れて根付いている。 「やくそく、な」 「うん・・・」 逢坂の腕が背中に回されて、正面からぎゅっときつく抱かれる。口からまた勝手に笑い声が零れて、柴田は逢坂の腕の中で自分の自由になるスペースを探るみたいに体を捻った。 「痛いわ、なに」 「侑史くん、俺思ったんだけど、1年か2年って結局どっちなの?はやいほうで良い?1年で良い?」 「どっちって・・・大体の目安だろ・・・」 「目安って言われても分かんない!はっきり、しとこう!この際!」 「はは、お前がしっかりできたら、ほんとはいつでもいいんだよ」 「・・・え?え?」 「それより何か作って、昨日の夜から何も食ってないから流石に腹減った」 「いや、それは、作るけど、ちょっと待って侑史くん。いつでもいいってどういうこと?どういうことなの?」 「はは」 柴田はそれには答えずに笑って、逢坂の手を逃れて立ち上がった。逢坂の不安そうな目が柴田の動きに合わせて揺れて動く。それにもっと優しいことを言って、逢坂の尖った神経を宥めることもきっとできるだろうけれど、柴田はそれを選ばない。そうやってもう少し、俯いて震えて恋人になってと懇願したあの日みたいに、逢坂の曇りのない瞳に追いかけられているほうが、自分の方が優位に立っているみたいで気分が良いから、なんて言ったら逢坂は怒るかもしれないけれど。 (もうちょっと俺のこと好きでいて、俺のこと追いかけててくれよ) いつか、その背中に追いつくまで。 fin.

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