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カナリアの恋人 Ⅰ
扉を開けた時、逢坂はあからさまに嫌そうな顔をした。
「何でそんな顔するんだよ、逢坂」
隣に立っていた伊原がそれに気付いたみたいで、唇を尖らせながらそう呟いた。そして勝手にすたすたと店の中に入り、空いているカウンターに腰掛ける。それは余りにも手慣れた動作で、伊原はバーと名のつくものに何度も来ているのかもしれないと月森は思った。モテる伊原が女の子とこういうお店に来ていても、別段不思議ではなかったが、何故か月森はその時、新鮮な驚きとともにあった。月森は伊原の後を慌てて追いかけて、低く良く知らない音楽がBGMとして鳴っている店内に足を踏み入れると、ぎくしゃく体を動かしながら伊原の隣の空いているスツールに腰掛けた。月森はと言うと、余りお酒に強くないこともあって、お酒だけを飲みにバーなんかに来ることは初めてだった。逢坂は困ったように伊原を見た後、月森に視線を移して小さく溜め息を吐いた。するとそれに気付いて、伊原がまた大袈裟に眉を顰める。
「何なんだその顔は、お前がいつでも来て良いって言ったんだろう」
「そりゃそうだけどさぁ・・・今日言って今日来ると思わないじゃん・・・まいったなぁ・・・」
「ごめん、閑、今日なんかまずかったの?」
伊原はまだ隣で納得がいっていない様子だったが、逢坂が本当に困った顔をしているので、月森は申し訳なくなってそう尋ねた。逢坂が新しいバイトをはじめたことを聞いたのが、今日の午前中の講義前だった。例の恋人と旅行に行くために、深夜の割のいいバイトを始めた、良く聞けばそれがこのバーでのバイトだということだった。確かに聞いたのは今日だったが、月森も伊原も講義が終われば珍しくすることがなかったので、行こうかと言い出したのは伊原だったが、月森も二つ返事で特に何にも考えずについてきてしまった。確かに伊原が言ったように、いつでも来て良いよと、店の名刺を渡してくれたのは逢坂だったのだが、カウンターの向こう側に立つ逢坂は、まさか来るとは思っていなかったようで、困ったように眉尻を下げている。
「いやまずいっていうか・・・今日、侑史くんも来るって言ってたから・・・」
「あー、逢坂のカレシ?みたいみたい、紹介しろ」
「やだ、絶対やだ!心知はいいけど伊原っちはやだ!」
「なんだそれ、どういう意味だ」
隣の伊原が立ち上がって、スツールががちゃんと音を立てる。月森はまぁまぁとその伊原の背中を叩いて宥めながら、困ったような顔をしたままの逢坂に目を戻した。月森も勿論、逢坂が付き合っているらしい男のひとのことが気にならなかったわけではなかったが、逢坂が結構本気で嫌がっているので、これは伊原を連れて帰ったほうが良いのかなとカウンターに肘を突いたまま考える。
「兎に角一杯飲んだら帰ってよね!」
「あーうん、そうする」
そう言い放って逢坂は、急ぐようにカウンターの奥に行ってしまった。注文は聞かれなかったけれどいいのだろうかと、月森はその背中を見ながら思う。すると隣で立ち上がったままだった伊原が、諦めたように舌打ちをしながらようやく座った。
「えー、マジで?なぁ心知、マジで帰るの?お前も見たくない?」
「いや、見たいよ。でも閑が嫌がってるし・・・」
今日は仕方がないから逢坂の言うとおりにしようと月森が言うと、伊原は全く納得のいっていない顔で、月森のほうを見やった。するとその時、扉の近くで店員の誰かが逢坂を呼ぶ声がした。何気なく見やると、逢坂がカウンターの奥から出てくる。
「あれ、来た?」
「あー・・・ちょっと早かったな」
口角を引き上げて伊原が言う。入口から誰かがひとり入ってくる。そしてそのままカウンターの空いている席に腰掛けたのは、確かにどう見ても男のひとだった。奥に座っている月森と伊原の位置からも、ライトが当たっているのでその横顔が良く見えた。呼ばれて奥から出てきた逢坂が、あからさまに自分たちに向けたのとは違う顔をして、その人の前に立つ。
「侑史くん、どうしたの、もうちょっと遅くなるかと思った」
「思ったより早く終わって」
そう言って笑う柴田に会うのは、逢坂がバイトを新しく始めたり、詰めたりしているせいで、酷く久しぶりのような気がした。旅行の資金の為に新しいバイトをはじめたと柴田に話したのは少し前だった。深夜で割が良かったからバーで働くことにしたと言うと、柴田が何故か妙に興味を持って行きたいと言うので、別にいつでも来て良いよと言っておいた。しかし柴田も連日仕事で遅くなる日々が続き、明日も早いからとなかなか来る機会がなかった。今日仕事が早く終わりそうだから行ってもいいかとメールが来たのが今日のお昼過ぎで、時間的には月森と伊原に来てもいいよと言ってしまった後だった。しかしあのふたりが今日の今日でまさかやって来るとは思わなかった、逢坂ははっとふたりがいることを思い出してカウンターの反対側を見やった。するとふたりは興味津々な眼差しでこちらを見ており、思わず舌打ちをしそうになって飲み込む。
「いいな、それ」
「え、なに?」
急に柴田が口を割って、逢坂ははっとしてカウンターの奥の二人から柴田に目を戻した。カウンターに肘を突いてこちらを見上げている柴田を、店の中でなかったらきっと抱き締めていたと思いながら、逢坂は今日で何日触っていないのだろうと考える。
「制服、かっこいい」
「・・・あ・・・ありがと・・・」
「んー、いいなぁ、しずかは何でも似合って」
「なん・・・にも出ないよ、そんなに褒めても・・・」
「お酒出して、お酒」
はははと笑いながら柴田が言う。いつも大体毒舌なのに、時々直球で褒めてくるから、始末が悪いと思いながら俯く。きっと自分の顔は赤くなっているだろうと思いながら顔を上げると、まだ柴田はにこにこ笑っている。抱き締められないのに、キスも出来ないのに、そんなこと外で言うのはやめて欲しかった。逢坂は小さく溜め息を吐いて、材料を取りに半身になりかけて、また柴田の前に戻ってきた。
「お酒、何飲むの、侑史くん」
「んー、しずかが作って、お任せで」
「お任せって・・・俺そんなに色々作れないよ」
「できるやつでいいよ、俺の好きそうなやつ。分かるだろ?」
上目使いでそう言われて、逢坂はまた耳の裏がじわっと熱くなったような気がした。何のせいで機嫌が良いのか分からないが、今日は柴田のテンションが高い。柴田は基本的にローテンションで、眉間に皺を寄せていることが多いが、時々とても機嫌が良い日があって、今日は多分それだ、逢坂は思いながらちらりと月森と伊原のほうを見やった。相変わらず隠す気のない興味本位な目線を向けている。声までは聞こえないだろうけれど、考えながら小さく息を吐く。バーで働くようになって、お酒の種類に詳しくなった。沢山は作ることが出来ないけれど、材料をグラスに入れて混ぜたらできるような簡単なものなら幾つか教えてもらったりして、客に出しても良いようになっている。少ないレパートリーをざっと頭の中に並べて、柴田の好みも考えて、グレープフルーツジュースをベースにしたカクテルにした。コンビニでは色々酎ハイやらサワーやら買っているが、結局一番のお気に入りはグレープフルーツサワーで元気のない日はいつもそれを買うのを知っている。
「はい」
「なに、これ」
「飲んでみて」
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