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カナリアの恋人 Ⅱ

透明な液体の中を炭酸の泡がふつふつと溶けている。柴田はそれを一口飲んで、それからにこっと笑った。何か作ったものを柴田が喜んで食べたり飲んだりしてくれることは、逢坂と柴田の関係ではもはや珍しくなかったけれど、それでもいつも新鮮に嬉しいと思えた。 「美味しい、グレープフルーツ?」 「うん、侑史くんグレープフルーツ好きだから」 「はは、ストーキングのたまものだな」 「う、やめてよ。ストーカーじゃないって言ってくれたの、侑史くんなのに」 「ごめんごめん」 はははとまた柴田が笑う。 「ちょっと待て、何で俺らは放置であっちには酒が出てんの?俺ら注文すら聞かれてないよな」 「・・・う、うーん・・・まぁ確かに」 「あんな店員クビだろ、客といちゃいちゃしやがって」 「何苛々してんの、伊原」 ぽんぽんとまた宥めるみたいに月森が伊原の背中を叩く。じとっと睨むように逢坂を見ていると、それに気付いたようにふっと逢坂がこちらを見るのと目が合う。あからさまに鬱陶しそうな顔をして、逢坂は柴田に何やら言うとすたすたとこちらに戻ってきた。 「ちょっとじろじろ見ないでくれる・・・早く帰ってよね・・・!」 「お前、俺らには何にもなしか」 「あぁ、はいはい!ビールね!」 「なんでビールなんだよ。俺らにも何かカクテル的な何か出せよ」 最後まで鬱陶しそうな顔をしたままで、逢坂は店の奥にひらりと姿を消した。隣の伊原が舌打ちをして、スツールに再度腰掛ける。月森はふたりのやりとりをぼんやり聞きながら、カウンターの端にひとりで座る柴田の様子をじっと見ていた。スツールに戻った伊原がふっと見やると、月森が嫌に真剣な目線で柴田を見つめているので、自然に口角が引き上がった。 「なぁ、心知」 「んー?あ、結局俺らビール?」 「逢坂とあのひとさ、どっちが掘られてるんだと思う?」 ぎょっとしたように月森の肩がびくんと震える。振り返った月森は、若干頬を赤くしていた。こんなことで赤くなるなんて思春期か、と伊原は思いながらふいと月森の責めるような視線から顔を背けた。そんなことをしている間に、逢坂ではない店員がふたりにビールを運んできた。結局勝手に逢坂にオーダーを決められてしまった。舌打ちをしながら、仕方なく伊原はそれを飲む。 「伊原、お前、そんなことばっか言ってると閑に本気でキレられるよ」 「なぁ、心知はどっちと思うんだよ。俺はやっぱりあのひとが掘られてる方と思うな」 「・・・何でそう思うの」 「体格的に?ちょっと聞いてみる?」 「やめろよ、マジで。お前、閑に嫌われるぞ」 「もしかしたら奢ってくれるかもしれないじゃん、金持ちなんだろ?」 「それこそ悪いよ」 苦笑しながら月森はやんわりと伊原の暴走を止めたつもりだったが、隣のスツールがかしゃんと音を立てて、気付けば伊原がそこからいなくなっていた。ビールのグラスを持ったまますたすたと柴田の方に近づいていく伊原の背中を、月森は顔面蒼白になりながら見つめていたが、伊原だけ突撃させて何がまずいことになってはいけないと思い、自分もビールのグラスを持ち、スツールから慌てて降りる。こんな時に逢坂の姿はどこかに消えたまま、戻ってくる気配すらない。 「ちょっと伊原」 「声かけるだけじゃん、なにビビってんの、心知」 「だって・・・」 何やら月森が言い淀むと、ふっと伊原がその腕を振り払って、左の口角だけを器用に引き上げる。そしてこちらに背を向けた。伊原は確かにモテるが自分から声をかけに行ったりはしないタイプで、女の子との関係も完全な受身だと勝手に思っていたが、この行動力は案外そうでもないのかと月森は首を傾げて、もう伊原の背中を止めることを半ば諦めていた。 「こんばんは」 ふっと柴田がこちらを向く。逢坂と話している様子とは違って、無表情でいるとやけに冷たい印象のするひとだと月森は思った。伊原はそれが見えているのかいないのか、自棄に手慣れた動作で首を傾げると、柴田の隣の空いているスツールを指さした。 「隣、良いですか?」 「あー・・・」 柴田の目がゆっくり伊原から移動して、後ろに立つ月森にぶつかる。これは完全にナンパだと思われるのではないだろうかと思いながら、月森は体をびくりと硬直させた。伊原に全てを任せていたら、逢坂をさらに怒らせることになりそうだと思って、月森は伊原と柴田の間に自分の体を入れるみたいに、間に立った。その冷たい目線が少し低いところから自分を見上げている。 「すいません、いきなり声かけて、俺たち閑・・・あ、いや、逢坂くんの大学の友達で・・・えっと」 「あぁ、なんだ、そうなんだ」 口調が急に柔らかくなって、月森はほっとした。 「あ、俺、月森って言います。こいつは伊原で。逢坂くんから時々、あの、柴田さんの話を聞いていたので、折角なのでちょっと挨拶しといたほうがいいかなって」 「あぁ、丁寧にどうも。隣、座っていいよ」 にこっと柴田が笑って、月森がそれにお礼を言う前に、伊原がすたすた歩いて行って勝手にスツールに座る。こっちはお前のせいで嫌な汗を一杯かいたのに、と月森はその伊原の身勝手な背中を恨めしく思いながら、柴田に一度会釈して隣に座った。 「意外だな、しずか、学校で俺の話なんてしてるんだ」 「時々ですけど、閑あんまりそういうところ隠さないって言うかオープンなひとなんで・・・」 「へー、真中さんには隠したのに」 「・・・え?」 「あ、ごめん。こっちの話」 言いながら柴田が笑って、透明なカクテルを飲む。 「学校で何て言ってるの、しずか、俺の事」 「なんて・・・えー?なんて?」 「色々買ってくれて困るって言ってます、金持ちだって」 「へ?」 「オイ、伊原、ちょっとお前」 月森が慌てて伊原の服を引っ張ったが、伊原は全く別の方向をつんと向いたまま、ビールを飲んでいる。はははと柴田が笑い出して、月森は慌てて顔を戻した。 「なんだ、それ。別に金持ちじゃねーし」 「ははは、いや、俺らみたいな貧乏大学生からしたら社会人の人はそれだけで金持ちですよ・・・」 「柴田さんって、逢坂と付き合ってるんですよね」 伊原があらぬ方向を見たまま、また不意に口を割って、月森はどきりと心臓が跳ねた。相変わらず文脈を無視してしたい話だけねじ込んできてと思ったが、どうしようもない。恐る恐る柴田のほうを見やると、柴田は何でもないような顔をして、それにくいっと口角を上げた。 「うん、まぁ、そうかな」 「どっちが掘られてるんですか」 「わぁ!やめろ!伊原!ばか!」 まさか本当に聞くとは思わなかった。月森は赤くなった頬のまま、思わずばしばしと伊原の頭を叩いた。とても柴田の様子など確かめられない。 「・・・はは」 半身になった月森の右半身に、急に柴田の笑う声が当たって、月森ははっとして伊原を叩いていた手を止めた。恐る恐る笑い声のしたほうを見やる。月森に良いように叩かれていた伊原も、月森の暴力が止まると同じように柴田のほうを見やっていた。 「そんなこと興味あんの、教えてやろうか」 肘を突いたまま、にやっとして柴田が言う。月森は何故かそれが、とてつもなくかっこよく見えて背中にまた嫌な汗をかいた。ちらりと伊原を見やると、いつものポーカーフェイスなので分かりにくいが、黙ったまま動けないでいるようだった。 (おとなの・・・よゆうだ・・・) 「あー!」 その時遠くで逢坂の声が聞こえて、月森は心底ほっとした。ばたばたと逢坂がどこからかやって来て、カウンターの上をどんと拳で叩く。その肩は息切れで上下している。先程ほっとしたばかりの月森は、逢坂の顔を見て、やっぱりしまったと思い直していた。 「なにやってんの、ふたりとも!」 「あー・・・いや・・・うん、ごめん」 「お前の金持ちのカレシに奢ってもらおうと思って」 「伊原、お前黙ってて、事がややこしくなるから!」 「もう帰ってって言ったじゃん!何してんの、ほんともう!」 「そう怒るなよ、しずか。別にいいだろうが」 黙っていた柴田が口を挟んで、月森は俯きながらよっしゃと胸中でガッツポーズをした。案の定、逢坂はうっと口の中で言い、それから何か言葉を選ぶみたいに視線をふらっと宙に彷徨わせた。ふたりの関係がどういうものなのかよく分からないが、逢坂も柴田相手に強くは出られないらしい。月森はそっと視線を上げて逢坂の表情を確認する、眉尻が下がって情けない顔をしていた。 「良くない・・・なんか変なこと言われなかった?変なことされなかった?」 「ばか、お前は友達を何だと思ってんだ。しずかの話をしてくれたよ、お前が大学でどんな風かって」 ちらりと逢坂が此方に目を向けてくるのに、月森は出来るだけ愛想良く見えるように微笑んで見せた。隣で伊原がこの空気感を全く気にせずビールを飲んでいるのが、ちらりと視界の端に写って、自分はこんなに心を砕いているのに腹立たしい気分だった。 「それ飲んだら、帰ってよね、頼むから・・・」 「うん、ごめん、ほんとに、そうする」 力なく項垂れた逢坂の名前が、遠くから呼ばれて、逢坂はぱっと顔を上げた。 「早く行けよ、呼ばれてるぞ」 「・・・あー・・・うん」 何か言いたそうな顔をしたまま、逢坂は呼ばれた方に走っていく。それを見ながら柴田がくすくすと笑っているのが聞こえた。 「柴田さんって」 逢坂がいなくなってしまった後、不意に黙ったままだった伊原が、突然口を割った。グラスの中のビールはすでになくなっている。またろくでもないことを言い出すのではと思いながら、月森が慌てていると、隣から柴田が何でもないように返事をした。 「なに」 「どうして逢坂と付き合ってるんですか」 「あー・・・」 俯いて柴田はくくっと笑って、また透明なカクテルを飲んだ。 「伊原くんの質問は全部答えにくいなぁ・・・どうしてって、まぁそりゃ色々あるんだけど」 「だって沢山お金持ってるんでしょ、それにフツーに柴田さん女の子にもモテそうだし」 「いやモテないよ、俺は。仕事にしか興味がないから」 そうして柴田は困ったように言葉を切って、少しだけ考えた。 「でも、一番は、そうだなぁ、アイツがすげぇ俺のこと好きだから、かな」 「え?」

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