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七、八倍の速さで生きている。
※2004年の春の話。
日曜の朝、早朝バイトから帰宅して車を降りると、季節外れの桜の匂いがした。兄の匂いだ。知玄 はくんくんと鼻を鳴らした。匂いは玄関の左手、家と工場との間の狭いスペースから流れてくる。高校時代までは駐輪場として使っていた場所だ。
がらくただらけのテラスを覗いてみれば、やはり兄は、コンクリの床にウンコ座りをして、煙草を吹かしていた。知玄は素早く背後を見回した。こんな人目につかない場所で、兄と二人きりになろうとしているところを両親に見られては、大変だ。二ヶ月ほど前に知玄と兄の関係が両親にバレて、井田 家には「不純兄弟交遊禁止」という新ルールが設けられた。
兄は床に落ちているゴミをじっと見詰めていて、知玄に気付いていない。抜き足差し足忍び足で知玄は兄に近付いた。
「ひあっ!」
ちょっとだけ驚かせるつもりが、逆にびっくりしてしまった。ただのゴミ屑だと思った物体が、突然生々しく動いたのだ。
一方兄はといえば、知玄の気配に本当に全く気付いていなかったようで、知玄の悲鳴に目を見開いたが、すぐに目を細めて「静かにしろよ」とドスの利いた声で言った。
「何ですかそれ」
知玄は兄と「それ」から少し離れた所にしゃがみ、小声で囁いた。兄は「んー、見ての通り」と咥えた煙草を揺らしながら答えた。
遠目にみれば、枯れた蔓草の塊、すこし近付いてみれば、縺れ合った細長いゴムの切れ端のようなもの。だがそれは時々、身体の倍以上ある長さの尻尾をゆらりと振った。
「カナヘビ、ですよね」
しかも、二匹のうちの仰向けにひっくり返った方の下腹に、もう一匹が噛み付き、相手の下半身に両手両足でしがみついている。尻尾の付け根の辺りを相手の同じ部分に押し付けていて、これはどう見ても交尾の真っ最中だ。
カナヘビ達は、人間に見られているのもお構い無しに交尾を続行しているが、オスの方は苛立たしげに尻尾をシュッシュッと振った。
十分が経った。カナヘビ達はまだ、黙々とまぐわい続けている。
知玄は脚が痺れてきた。兄の真似をしてウンコ座りをしてみたが、楽なように見えて長時間するにはキツい姿勢だ。ちらっと兄の方を窺うと、兄はずっと同じ姿勢でカナヘビを観察し続けている。さすがだ。知玄は兄の身体の柔軟性に思いを馳せた。筋肉質なので関節は固いのかと思いきや、行為の最中、兄の膝裏は知玄の肩に易々とかかった。なんて、いけない、いけない。思い出すとしたくなってしまう。
「なんか、」
兄が急にしゃべり始めたので、知玄はぎくりと顔を上げた。
「お前みたいだな」
「えっ」
「って思って見てた」
知玄みたいな方、というと、やはりオスの方を兄は指しているのだろう。メスの下半身にぐるっと絡み付けるほどの柔軟性は、知玄にはないが。
オスはもうイライラと尻尾を振りはしない。リラックスしたように目を閉じて交合を続けつつ、メスの下半身を拘束する両手両足と、メスの下腹を噛む顎に力を込めた。メスの柔らかな腹がV字形にへこんだ。メスはもぞりと背中を仰け反らせた。苦しそうな体勢とは逆に、メスの表情は虚ろだ。そして、そんなカナヘビのカップルを眺め続ける兄の表情も、カナヘビのメスのように虚ろだ。
知玄はウンコ座りのまま、音を立てないよう気をつけながら、一歩兄に近付いた。兄は気にも留めずに、虚ろな表情でカナヘビを眺め続けている。
知玄は考えた。兄が言いたいのは、知玄がカナヘビのオスに似ているということより、兄自身が行為の最中はカナヘビのメスみたいな心境なのだということではないのかと。えっ、虚無? お兄さん、僕とエッチするときはずっと虚無でした? まさか……。
兄はカナヘビに向けた視線はそのままに、また話し始めた。
「カナヘビの寿命って、十年くらいなんだってよ」
「へぇ、意外と長生きなんですね」
ハムスターよりも長生きではないか。知玄は漠然と、カナヘビも二、三年くらいしか生きないのではないかと思っていた。
「人間の七か八分の一くらいだ。ってことは、こいつらは人間の七、八倍の速さで生きているってことだ」
「そうですね」
「こいつら、もう三十分くらいこうしてるけど」
ということは、兄もまた三十分くらい、ここでカナヘビの交尾を観察し続けているのか。
「えぇ……」
「人間時間に換算すると、三時間半か四時間くらい、ずーっとヤり続けている」
「はい」
「まあ、オチはない」
「ないんですか」
兄はふとウンコ座りの膝の上に両腕を組み、そこに顔を載せて、知玄を見上げた。兄の目は先ほどのように虚ろではなく、光が差し、力がこもって見える。
知玄は視線を少しずらした。首を傾げている兄の、日に焼けた首筋が見える。そこには二ヶ月前まで知玄のつけた番の証が刻まれていたが、今は何事もなかったかのように何もない、まっさらな肌だ。両親の前で、二人は番の契りを解消させられたのだ。知玄は泣く泣く番の解消を宣言したというのに、兄はといえば、ぴくりとも表情を動かさなかった。以来、兄は知玄を「俺の番」と呼んでくれなくなったし、接し方もどこか昔に戻った。
ところが、兄は今、知玄に熱い視線を送っている、ように見える。そして、カナヘビの番が人間時間に換算して三時間半か四時間も交合し続けているのを羨ましがっている、ように見える。季節外れの桜の匂いが、知玄の鼻腔を刺激する。知玄はおそるおそる、もう一歩兄に近付いて、言った。
「お兄さん。お兄さんは僕と、カナヘビみたいにしたいんですか?」
僕はお兄さんの首を凹むほど噛み付きたい。そして両手両足でお兄さんを羽交い締めにしたい。そう訴えようとしたまさにその時、兄の顔色が変わり、そしてカナヘビ達が結合を素早く解いてピュウ! と逃げていった。
振り返れば、母が鬼の形相で立ちはだかっていた。
「不純兄弟交遊禁止っ!!」
(おわり)
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