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バイトに行ってきます。
※2004年の4月下旬の話。
階段を降りると、土間に兄がいた。従業員休憩用のテーブルに着いて、こちらに背を向け、スポーツ新聞を広げている。今朝、母に散髪されたばかりの、すっきり刈り上げられた後頭部。ピチピチの黒いTシャツの逞しい背中は、見馴れ過ぎる程に見馴れているのに、ふと目に入る度、僕は惚れ惚れしてしまう。
「出掛けんの?」
兄は紙面から顔を上げずに言った。
「バイトに行って来ます」
「そっか。無理すんなよ」
「大丈夫です、適度に稼いできますよっ」
僕は靴を履くと、ブンブン両手を振り、気合いを入れた。テーブルの脇を通り抜けようとした時、兄が顔を上げた。目が合った。兄は、小さな子が何かをおねだりする時のように小首を傾げている。これはいつもの、キスの合図! 僕は兄の鼻の頭に鼻で触れた。そしたら、メンソールの微かに香る薄い唇に、唇を重ねるのだけど、
「あ、」
「あ。」
そうだ。僕と兄は、番 を解消したんだった。母は二階にいるし、父はきっと事務所にいるから、今ここは僕たち二人だけの世界だけど。
兄は軽く仰け反るようにして、僕から少し離れた。やっぱり、もう番じゃないからダメか。そうだよなぁ……。兄はそんなに甘くない。
だけど、最近すっかり小麦色に日焼けした兄の頬は火が点いたように赤く、顔どころか耳も、首もTシャツの襟ぐりのところまでもが、ほんのり色づいている。それに、忙しなくさ迷う視線。動揺しているのは明らかだった。
残念なことに、僕らは番を解消しなければならなかった。けど、そのお陰で、兄のこんな表情を、拝めてしまった……。
もっと見ていたいけど、バイトに遅刻してしまうし、こんな所を父や母に見られたら、大変なことになる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気を付けてな」
兄の声はちょっと上ずっている。僕は、後ろ髪を引かれる思いで家を出た。
(おわり)
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