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第3話

 どうして彼が、菊池優真が交番に?  つい先ほどまで、「気になる」人物として記憶を辿っていた。その本人が、今目の前に立っている。旭の頭の中に何故?が飛び交い、何も考えられなくなる。  固まっている旭に向かって、部下の田村慶治が呼びかけた。 「……旭部長? 聞いてます?」  肩をたたかれ、おかげで我に返った。  勤務中に放心するなんて、自分らしくない。  旭は内心で自分を叱咤し、静かに深呼吸をする。 「ごめん、聞いてなかった。この方は、何か用事が?」  努めて平静を装い、田村に問いかける。その問いに対し、田村は苦笑いで返した。 「お忙しいところすみません。登校中に財布を拾ったので、届けにきました」  優真が口を開いた。自分が直接説明した方が早いと判断したのだろう。見ると、確かにその右手には学生には不釣り合いな革製の長財布が握られている。 「登校中だったのでどうしようかと思ったのですが、近くに交番があることを思い出したので。遅刻はもう確定しているので、もうちょっと遅くなっても別にいいかなと思いまして、寄ることにしました」  現在進行形で遅刻中だという割りには、落ち着いた様子で優真は説明した。  あぁ、この声だ。  旭は瞬間、再度昨日のことを思い出す。緊張と羞恥の最中にいた自分を、救ってくれた声。昨日とは異なり、今日は間近でその声を耳にしている。変声期をとっくに終えた大人の声ではあるが、どこか軽やかさがあり、引きつけられる響きだ。  旭は改めて優真を見つめた。いろいろと思うところはあるが、まずはやるべきことがある。 「急いでいるところ、わざわざありがとう。取り敢えず、交番の中に入ってもらっていいかな。書類を作るから」  旭は田村に書類の準備を指示し、そして優真を交番の中へと招き入れた。  書類を作成していた田村が、向かいに座っている優真に問いかける。 「本当に、『お礼をもらう権利』、いらないの?」 「拾得届」と書かれた書類を作成しながら、田村は優真を怪訝そうに見つめる。 「はい。本当に、だいじょうぶです。いらないです」 (五度目だな……)  旭はこのやり取りを傍らで眺めながら、心の中でカウントする。  優真が届けてくれた革財布は、財布それ自体も立派な物だったが、中身も相応に立派だった。ゴールドのクレジットカードが数枚。各銀行のキャッシュカード。それに加えて、現金がおよそ30万円ほど入っていたのだ。中身を確認していた田村は「金持ちだなぁ」などとつぶやきながら現金を数えていたが、これほどの大物の取扱いは旭もほとんど経験がなかった。現金を数えるにもより慎重になってしまい、2人で何度も何度も数え直した。 「拾って警察に届けてくれた人にはさ、法律に書いてあるんだけど、5%から20%の間でお礼をもらう権利があるんだよ。今回だったら、少なくても1万5千円。多ければ6万円だよ。本当にいいの? 後悔しない? この落とし主、お金持ちだよ?」  旭は苦笑する。法律に定められている、具体的な数字の説明は3回目。そしてこの確認に対する優真の回答も、変わらずもう3度目だ。 「ですから、だいじょうぶですって。落とし主の人に返してもらえたら、それでいいんです」  迷いなく毅然と答える優真の姿に、旭は感心していた。本当に、善意でもって交番に届けてくれたのだろう。学校の教頭が「まじめ」だと評していたが、それが間違っていないことを実感する。  そもそも警察側からすれば、無理にお礼を要求してもらう必要もない。権利があることを説明し、判断するのは届け出た本人だ。優真がお礼をもらわなかったとして、そこには何一つ問題はない。  田村はしぶしぶといった様子で、書類にある「お礼はいりません」といったことが書かれた項目にチェックを入れた。自身とは無関係なのに、もったいない、などとつぶやいている。最後に、届け出た優真が署名をして、書類は完成だ。出来上がった書類を旭が確認する。間違いがないことを確認し、控えの書類を優真に手渡した。 「長い時間付き合ってくれて、本当にありがとう」  優真は椅子から立ち上がりながら書類を受け取り、そして旭を見つめる。 「ほんと、長かったですね。まさか落とし物を届けるのに、こんなに時間がかかるなんて思わなかったです」  ドキッとした。財布の中身が多く、確認に時間がかかってしまったことは事実だ。通学途中に立ち寄ってくれての届け出だという事情も、分かっていた。時間が無いなら無いで、やりようは他にあった。にも関わらず、時間のかかる正式な受理方法を選んだのは、他ならぬ旭自身だ。  痛いところを突かれてしまった。隣にいる田村も、ばつの悪そうな顔をしている。 「……時間がかかってしまって、申し訳ない。遅くなってしまったことについては、学校には私から連絡を入れておくよ。『そちらの心優しい生徒さんが落とし物を交番に届けてくれましたが、手続きに時間がかかり、遅刻させることとなってしまいました。申し訳ありません』って」  頭を下げる旭を見ながら、優真がふふっと失笑する。 「ごめんなさい、冗談ですよ。別に、お巡りさんを責めたりなんかしません。元はと言えば、学校に遅刻するような時間に家を出てきた僕自身が悪いんです。お巡りさんは悪くありませんよ」  旭が顔を上げると、優真は微笑みながら旭を見つめていた。やわらかな視線がまっすぐに旭に向けられており、旭は再度ドキッとする。  つい先ほどは、警察官としての不手際を指摘されたと感じてのものだった。  しかし、今は違う。今現在旭が感じている鼓動は、純粋に「高鳴り」と呼べる類いのものだ。不安や緊張などから来るものとは、種類が違う。  旭は改めて、優真の顔を見つめた。  端正な顔立ちだ。自分とは異なり、男前だなとも思う。若さ故にか、溌剌としたエネルギーをまとっているようにも見える。内側から、自ら発光しているかのような輝き――。  旭は、昨日優真が講堂に入ってきた時のことを思い出す。多くの生徒が、尊敬か憧れか、それとも恋慕か、なにがしかの好意を持って優真を見ていた。今の自分も、もしかしたらあの生徒たちと同じ様な表情をしているかも知れない。  尊敬か憧れか、それとも――。  旭は、優真とまっすぐに向き合う。微笑んだままの優真が、旭の瞳を見つめながら言葉を続けた。 「昨日、学校に防犯講話に来てくれたお巡りさんですよね?」  不意に投げかけられた言葉に、旭は戸惑う。まさか、つい先日のこととは言え自分のことを覚えているとは思わなかった。市民からすれば、制服を着た警察官なんてものは見分ける必要がない。十把一絡げに「警察官」だと認識するのみで、事情がなければ個人の識別なぞしていないものだ。ところがこの少年は、一度講話で見かけた程度の旭を「旭個人」として認識している。  旭はそのことに、面映ゆさを覚えると同時に微かな喜びを感じた。 「そうだけど、何か?」  どのような返事がくるのか分からず、旭は緊張する。一瞬前の高鳴りとはまた別の動悸が続く。 「やっぱり。そうですよね」  それだけ言うと、優真は踵を返し交番を出て行こうとする。 「あ、ちょっと……」  思わず旭が呼び止めると、優真が振り返った。 「お金みたいなお礼や、お詫びの言葉なんていらないんです」  いたずらっぽく笑う。 「また、遊びに来てもいいですか?」  優真が交番を訪れてから数日が経った。 「毎度毎度、当直ってしんどいですよねぇ~」 「今日はまだマシな方だろ。大した事案なかったじゃないか」 「それはそうなんですけど~」  田村が情けない声でつぶやく。  無事に当直勤務を終えた旭と田村は、交番で今日の勤務員に引き継ぎを終え警察署に戻ってきた。  田村の言うことももっともではある。大きな事件がなくとも、朝9時から翌朝9時までの24時間勤務は、肉体的にも精神的にもきついものがある。勤務を終えたら、次の勤務に備えて速やかに休息を取りたくなるものだ。  拳銃や無線機等の装備品を格納し地域課の部屋で帰宅準備をしていると、警務係の係長が旭の元へとやってきた。 「佐倉部長、今日、当直明けだよね? 今から何かある?」  警務係は、警察署における縁の下の力持ちだ。人事や装備品の管理、行事の段取りなど、煩雑な事務作業を一手に引き受けてくれている。現場に出ることは無いが、警察組織の運用上、なくてはならない存在だ。  その警務の係長の用事。旭は自身の記憶を探る。最近、保険の契約内容を変更したが、契約書類に不備でもあったのだろうか。ほかに心当たりがない。 「いえ。特に何もありませんが。何か?」 「副署長が呼んでるんだけど、ちょっと来てもらえる?」 「副署長が?」  旭は思わず、怪訝さを隠さずに声に出してしまう。  最近は表彰されるようなことも、処罰を食らうようなことも何もしていないはず。自分の直属の上司にあたる交番所長や、地域課長からも特に何も聞かされていない。一体、なんの用件だというのだろう。  地域課長に何事か確認しようとも思ったが、あいにく席を外しているようだ。  考えていても仕方がない。旭は田村に向かって「気にせず先に帰るように」と伝え、警務係長とともに副署長席へと向かった。  副署長は、定年を間近に控えた、恰幅のよい柔和な人物だ。刑事畑出身で、全盛期は鬼のように恐れられていたというが、今は退職を目の前にしだいぶ丸くなっている。ではあるが、やはり直接呼び出されるとさすがに緊張する。副署長本人を前にして、旭はいまだに何の見当もつけられずにいた。 「すまんな、明けで疲れてるところ。時間だいじょうぶか?」  やわらかそうな椅子にゆったりと座っている副署長。旭が見る限り、特段不機嫌そうな様子ではない。察するに、悪い話ではないようだ。旭は幾分緊張を解く。 「いえ。特に用事も何もありませんので。あの、何かありましたでしょうか?」  旭が早速口火を切ると、副署長は相好を崩した。 「うん。佐倉部長、高校生の、菊池優真って知ってるか? 知ってるよな?」  旭の心拍数が跳ね上がった。知らない訳がない。ついこの間も、拾得届の対応をしたばかりだ。しかし何故、その名前を副署長の口から聞かされる?  「はい、知っています」  旭はかろうじて、事実のみを答える。 「そうだよなぁ」  うんうんと頷く副署長は、どこか楽しそうだ。一体これは、何の話だ? 「いや、単刀直入に言うけど、佐倉部長にその菊池くんの面倒を見てほしいんだよ」 「はぁ?」  旭の口から、間の抜けた返事がこぼれる。  何の用件で呼び出されたのか。実際に今それを聞かされている訳だが、聞いたところで旭には全くもって意味が分からなかった。

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