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第5話その二

「菊池くん、どうかした?」  来所者用の椅子に腰掛けている優真に、旭が声をかける。しかし、優真の返事はか細く、はっきりとしない。 「いえ、別に。これといったことは、何も……」  警務係長に声をかけられてから二回目の当直の日。いつも通り、夕方になってから優真は交番へとやってきた。奥の事務室で書類に追われていた田村はわざわざ出てくると、優真に向かって、「防カメで見てるからな」と言い捨ててしかめっ面で引き返していった。  その日の優真は、見るからに普段と様子が異なっていた。顔色が悪いとかやつれているとか、そういった体調の悪さではない。気が抜けていると言うか、集中できていない、そんな感じだ。いつもなら旭のことを食い入るように見つめ、何気ない会話にも耳を傾けているのに、今日はどことなくぼんやりしている。旭とのやり取りも、生返事が続いていた。 「菊池くん、何かあった? 体調が悪いなら今日はこれくらいで」  旭は不調を気遣ったつもりだったのだが、優真は旭のその言葉を聞くなりはっと目を開くと、腰掛けたまま深々と頭を下げた。 「すみません。お忙しいところお時間作っていただいてるのに、ぼーっとしてしまって。失礼しました。お気を悪くされたのなら謝ります。すみませんでした」  遠回しに注意されたと受け止めたのか、優真は一気に謝罪の弁を述べた。座ったままとは言え、最敬礼ほどに腰を折るその姿に、逆に旭が戸惑ってしまう。 「いや。別に怒ってる訳じゃないんだ。ただ、いつもとちょっと様子が違うもんだから」  旭のそれは本心だ。優真に対して腹を立てている訳ではない。むしろ純粋に、心配なのだ。今日はまだ、一度も溌剌とした笑顔を見ていない。 「ほら、顔を上げて。ちょっと話をしよう」  旭は自分なりに精一杯の笑顔を作り、出来るだけやさしく優真に声をかける。優真は顔を上げると、旭の不器用な笑顔に釣られ少し表情を緩めた。。  優真の表情が幾分和らいだのを見て取り、旭が問いかける。 「何か、悩んでる?」  口に出してから、なんて間の抜けた質問なのだろうと旭は思った。高校三年生男子。悩みがあって当たり前だ。  問われて旭と目が合った優真だが、口を開こうとしない。  旭は過日の警務係長とのやり取りをはたと思い出す。手応えは、と尋ねてきた係長に対し「多分、受験してくれる」などと答えたが、もしや自分は大きく読みを外していたのではないだろうか。もしかしたら彼は、そのことを口に出せなくて気に病んでいるのかも知れない。  確認しなくては。そう考えた途端、旭は自分が緊張し始めたことに気がついた。心臓が高鳴り、口が乾く。自身を落ち着かせようと思い、デスクの上に置いてあった湯飲みを手に取り喉を潤した。  旭は一呼吸置いて、考える。何を緊張する必要がある。どちらを選ぶにせよ、それは彼が自分自身で決めたことだ。自分に出来ることは、その意思を尊重することだけじゃないのか。  一息ついた旭が、優真を見据える。努めて、取るに足らないことのように、軽い調子で尋ねた。 「もしかして、県警の採用試験、受ける気なくなった?」  旭が言い終わった途端、優真は跳ねるように勢いよく立ち上がると、 「違います!」  間髪を入れずに叫んだ。  あまりの唐突なリアクションに旭が驚いたのはもちろん、田村も奥から「何だ何だ!」と飛び出してくる。 「違うんです! そうじゃなくて、僕は、そんなんじゃなくてっ!」  旭は、そのまま勢いで、優真がカウンターを乗り越えてくるのではないかと思った。実際にはそんなことはなく、叫び終わった優真は顔を真っ赤にして黙ってうつむいてしまっている。旭は先ほどの自分の質問が、優真のそんな感情を引き出したことに驚いていた。 「あー……」  何かを言おうと、何か声をかけようとするのだが、何を言ったらいいのか分からない。旭はちらりと横目で田村を見やる。普段は優真に対して憎まれ口をたたいてばかりいる田村も、今回ばかりは唖然としており何も出てこないようだった。  沈黙に囚われた交番の中、どうしたらよいのか誰も分からず3人が3人とも立ち尽くしているところへ、交番設置の電話が鳴った。その呼出音に、皆が我に返る。田村がこれ幸いとばかりに事務室へと慌てて駆けていった後、執務室には旭と優真の2人が取り残された。 「菊池くん、あのさ……」  旭は口を開いたものの、実のところ何を言うべきか考えつかないままだった。優真が何か悩んでいるのは間違いない。しかしそれは、県警の採用試験についてのことではないのだと言う。では一体なんだ? そして採用に関することでなければ、自分はそこに踏み込む権利はないのではないか?  旭はふと、受験の意思について優真に問うた時、自分が何故緊張していたか思い至ってしまった。  今の自分と優真を繋いでいるものは、「県警の採用試験」だけだ。自分はあくまでも、職場見学の対応として優真に警察業務を案内しているだけの存在でしかない。もしも優真が県警への興味を失ってしまったら、2人を繋ぐものはなくなってしまう。ただの1人の警察官と、一市民という元の関係に戻ってしまう。  それは、嫌だ。  旭自身、何故かは分からない。けれど、優真との繋がりが断たれてしまうのは嫌だと、理屈ではないところで感じていた。  だから、優真の意思を確認しようとした時、緊張してしまったのだ。答えを聞くのが、少しだけ、怖かったから――。 「大きな声出して、すみませんでした。今日は帰ります。ありがとうございました」 「え、ちょっと待って――」  優真が踵を返し交番を出て行く。旭が慌てて追いかけようとしたところで、奥から田村の声が響いた。 「部長、現場です! 国道交差点で人身事故! 車両が横転して、付近が渋滞してるそうです!」  至急の現場だ。すぐに臨場しなくては。優真のことは気になるが、旭は「現場優先」と気持ちを切り替えることにした。  ちらりと、交番の外に視線を向ける。遠ざかっていく優真の背中が、いつもより少し小さく見えた。

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