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第5話その五

(まさか、菊池くんが、喫煙?)  直方体の、小さな箱。旭自身は喫煙者ではないが周りに愛煙家はいくらでもいるし、少年補導で何度も見かけているので、おそらく見間違いではない。  見なかったことにしたいが、ひとりの警察官としては、見てしまった以上確認せざるを得ない。  動悸が速くなる。  自分は今から職務質問をする側なのに、まるでされる側、それも充分にやましいことのある人間のようだ。 「菊池くん、ちょっと荷物確認させてもらえるかな? 見られて困る物、持ってないよね……?」 「あ、はい。特になにも。『所持品検査』ってやつですよね? どうぞ」  旭の緊張とは対照的に、優真は何の逡巡もなく自分のサコッシュを旭に差し出してきた。あまりにもあっさりしているので、旭は自分が見間違いをしたのではと一瞬考えたほどだ。  しかし残念ながら、見間違いではなかった。サコッシュを開いてすぐ、それは見つかった。 「菊池くん、これは……?」  旭がおそるおそる手に取って、優真に向かってかざす。それはまさしく煙草で、国内で最もメジャーな銘柄の一つだった。  優真が一瞬「あっ」と声に出し、手で頭をかく。眉間にしわの寄った顔が、上を向いたり下を向いたり、せわしなく動く。なんと答えようか思案しているようだった。旭は優真の回答を待ちながら、自分の手と声が震えていなかったか、そんなことが気になり始めていた。  たっぷりとした間の後に、優真が旭に顔を向けた。 「お守り、なんです。自分の」  予想外の返答に、旭がぼんやりとオウム返しをする。 「お守り……」 「そうです。吸うためのものじゃなくて、いなくなった父の残した物で、持ってると、なんか安心するから……」  今度は旭が言葉を探す番となってしまった。思いもがけず優真の家庭状況に触れてしまい、戸惑ってしまう。 「……吸っては、いないんだね?」  かろうじて口をついて出た言葉は、それだけだった。しかしそれは、警察官としても旭個人としても確認しておきたい重要な事柄だった。 「吸ってません。吸ったこともありません。その煙草だって、開けてもないです」  優真の答えは堂々としたもので、嘘はなさそうだった。  言われて旭は、改めて自分の掌にある小箱を眺める。封は開いていない。それどころか、箱を包んでいるシュリンクが真空包装のように箱にピタッと密着している。  旭はふと、喫煙者の先輩が煙草の箱をライターで軽くあぶっていたことを思い出した。「熱で縮んで箱にぴったりくっつくから、外れにくくなるんだ」。確かそんなことを言っていたように思う。その先輩は開封した箱の下半分についてそうしていたが、しかし優真の持っていたこの煙草は全体がピタリと覆われている。開ける気などそもそも無いのだと、そう主張しているように見えた。  そして旭は、さらにあることに気がついた。 「この煙草って、だいぶ古くない?」  メジャーな銘柄。それは間違いなかった。しかしそれも過去の話だ。その銘柄は数年前に名称が変わり、今では販売されていないものだった。 「父が吸っていた物の残りなので、もう5年以上前の物です」  優真の答えに、「そうか」とだけつぶやく。  様々な思いがあるのだろう。それは、分かるような気もすれば、他人には全く分からないもののような気もする。安易に「分かるよ」とは言ってはいけない気がした。 「あれ? 部長、それって……」  不意に、背後から田村の叫び声が響く。 「あーっ! ちょっと! それ煙草じゃないですか! こいつが持ってたんですか!?」  無線報告を終えた田村が、旭が持っている物を目ざとく見つけたようだった。鼻息荒くまくし立てる。 「こいつ、高校生のくせに煙草吸ってるなんて、とんだ悪ガキじゃないですか! 補導しましょうよ、部長! 少年補導! 悪ガキのくせに警察官になりたいだなんて、とんでもない話ですよ! 警務にも報告しましょう!」  旭は思わず顔をしかめる。失敗したな、と思った。煙草を見つけてしまったことに動揺してしまい、田村がどんなリアクションをするかまで全く頭が回っていなかったのだ。 「落ち着け、田村。この煙草はお守り代わりに持ってただけで、実際には吸ってないんだから……」 「そんなの分からないじゃないですか! 悪ガキの言うことをそのまま信じるなんて、佐倉部長、甘すぎますよ!」  田村の剣幕に、優真が目を伏せる。深く考えることなく持ち歩いていたのかも知れないが、それがいかに迂闊な行動だったのか、この事態となって今初めて気がついたようだった。 「でも田村、実際に封は開いてないし、菊池くんがいた周辺に吸い殻だって落ちてないんだから」  事実、優真が座っていたベンチ付近の地面はきれいなものだったし、喫煙者ならば必ず持っているであろうライターも、一見して荷物の中には見当たらなかった。 「なんで部長はこいつをかばうんですか!」  かばう? 違う。自分は彼を信じてるだけだ。  旭は優真の説明に、嘘はないと感じた。警察官だからと言って、職務だからと言って土足で無遠慮に踏み込んではいけない事情があるのだと感じた。旭は優真を信じているし、自分の感じたものを信じているだけだ。 「田村っ!」  一喝。  旭は意識的に力を込めた低い声を出した。 「喫煙目的じゃなければ、少年補導の対象じゃない。お前には後で説明するが、彼は吸うためにこの煙草を持っていたわけじゃないんだ。騒ぐようなことじゃない」  旭はゆっくりと田村に言い聞かせる。言葉の圧を感じ取ったのだろう。田村は背中を丸め、小声で「でも……」とつぶやいたきり静かになった。  2人のやり取りを無言で眺めていた優真が、顔を上げた。 「僕が煙草を吸ってないって、分かってもらえればいいんですよね?」  優真と旭の目が合う。何かを決意したような、力のこもった視線。  不意に、優真が旭に近づく。  サコッシュを受け取りに来たのか。旭がそう思った瞬間、正面から、両肩に優真の手が置かれた。 (え……?)  そして次の瞬間には、旭は優真に唇を重ねられていた。  唐突に襲いかかる、他人の温もり。  日頃愛用の湯飲みや食器ばかりが触れている唇が、唐突に押し当てられたやわらかさに戸惑っている。  鼻腔には、整髪料と思われる微かな甘い香りと、優真の汗のにおい。  目の前には、視界いっぱいの優真の顔。近すぎて、自分が今何を見ているのかも分からない。  旭は、突然のことで身動き出来ずにいた。手に持っていた優真のサコッシュも、お守りの煙草も、ぽとりと地面に落としてしまう。  力の抜けた口内に、歯列を割って優真の舌先が差し込まれた。侵入してきた異物が、旭の舌に触れる。そしてゆっくりと口腔内を一周して、静かに離れていった。 「どうですか、佐倉さん……」  鼻先が触れるような距離で、優真がそっと旭に問いかける。 「煙草のにおいなんか、しなかったでしょう……?」  たばこ……? 一体、なんの話だ……?  旭は混乱していた。今までにない程に、脈打っている心臓の動きが速い。警察採用試験の面接の時だって、窃盗犯人を全力で追いかけて捕まえた時だって、こんなに心臓は働いてなかった。  今し方、何が起こったのか。理解が追いつかない。正直、煙草のにおいがどうだったかなんて、判断出来なかった。  いったん離れた優真の顔が、旭の耳元に寄せられる。 「悩んでるかって、僕に聞きましたよね?」 「え?」  動揺していた旭は、それが夕方の交番での会話だと気づくのに時間がかかった。確かにそう問いかけ、「間の抜けた質問だ」などと自分自身で反省した覚えがある。 「僕の悩みの種は、佐倉さん、あなたなんです……」  肩に置かれた手が離れる。優真は旭の足下に落ちた自分の荷物を拾い集めると、一歩下がって頭を下げた。 「急に変なことして、すみませんでした。」  それだけ告げると、さっさと踵を返して公園から去っていってしまった。  旭は、何がなんだか分からずに、ただ混乱していた。頭の中を先ほどまでの映像がぐるぐるとリピートされるが、あまりに現実味がなく本当にあったことなのかどうかよく分からない。 「……キス、されたのか、俺は……」  言葉にしてみても、全く実感が伴わなかった。世界から感覚が遮断されてしまって、ドッドッドッと打ち鳴らされる自身の鼓動だけが唯一リアルに感じられる。 「佐倉部長……」  声のした方を見ると、田村が荒い呼吸を繰り返していた。泣き笑いのような表情が、興奮しているのか血の気に満ちている。こめかみあたりが痙攣して見えるのは気のせいか。  あぁ、こいつと現場に臨場してたんだったな……。旭の意識が少しずつ清明さを取り戻す。 「部長、俺、被害届取りますから……」 「……被害届? なんのことだ?」  旭の返答に、田村が爆ぜた。必死で抑えていたであろう表情が、般若のごとく憤怒で染まる。 「決まってるじゃないですか! 被害者である部長からの被害届ですよ! 部長に対する強制わいせつですよ! あいつ、部長に対して性的暴行を働いたんですよ!? あろうことか、公務中の部長に対して! 今度という今度は、あいつのこと許しませんからね! 強わいと公務執行妨害で逮捕しましょう!!」  田村はわめきたてたが、被害だなどと、旭は全く考えていなかった。ただ、起こったことに驚いて、そして特に嫌悪感が生じなかったことにも驚いていた。それだけだった。  翌朝、本署地域課の部屋に、机に向かい頭を悩ませる旭と田村の姿があった。装備品を外しているのに、2人とも表情が暗い。それぞれの手元には「始末書」と題された用紙が置いてあり、さらに標題として「『公園にいる警察官がうるさい』と苦情を受けた件について」と記されていた。  

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