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第6話(前編)

 佐倉旭がまだ布団から起き上がってすらいない朝一番で、警務係長から電話があった。 「菊池優真くん、採用試験の申し込みしてくれたよ」  本部の人事係から報告のメールが来ていたのだという。機嫌の良さそうな「おつかれさま。ありがとね」という係長の声に、しかし旭は「はぁ、どうも……」と力の抜けた返事しか出来なかった。  寝転ぶと同時に、大きなため息を漏らす。スマートフォンを傍らに放り投げた。  就職してもう何年も経つが、相変わらず休日に電話が鳴ると、「すわ、署からの呼び出しか!?」とビクッとしてしまう。重大事件が発生してしまえば、休日も何も関係ない。署員総出で捜査に当たる。それが警察だ。これまでに休日が潰れたことは、一度や二度ではない。  友人がけして多い方ではない旭には、プライベートな用件で電話がかかってくることは少ない。電話をかけてくると言えば、仕事関係がほとんどだ。そのため旭は、「電話が鳴る」ということ自体、あまり歓迎はしていないのだった。 (わざわざ休みの日にかけてこなくてもいいのに……)  旭の勤務は三交代制だ。24時間の当直勤務があり、当直明けの非番日があり、そして丸一日の休日がある。今日は平日だが、昨日が当直明けだった旭にとっては休日だ。  目覚めてはいたものの横になったままだらだら過ごしていた旭にとって、職場からの電話は気分のいいものではなかった。優真の件を早く旭に伝えようという、係長なりの気遣いだということは分かっている。分かってはいるが、本署からの電話は心臓に悪いということも理解してほしい。係長だって、同じ思いをしてきているはずなのだから。 「はぁ~……」  狭い部屋の中に、再度旭のため息が響く。  旭よりも年上なのではないかと思われる独身職員用の官舎は、「住める」というぐらいのもので決して「快適な住環境」というものではない。夏は暑く、冬は寒いという自然そのままの生活が堪能できる。天井や壁は歴代の住人による煙草のヤニでひどく黄ばんでおり、掃除する気力も奪われてしまう。  せめて趣味の物品で彩れば見栄えもよくなるのかも知れないが、異動に伴う引っ越しのことを考えると極力私物は増やしたくない。必要最小限度の物量に留めた旭の部屋は、どうしても殺風景になってしまう。  ただでさえ薄暗い部屋の中、旭はいつになく気が晴れずにいる。原因は分かっていた。 「菊池、優真……」  声に出してその名をつぶやき、過日の出来事を思い出す。勤務中に偶然出会ったこと。そしてその優真に、唐突に唇を重ねられたことを。優真の舌が旭の口中を動き回っていた、やわらかく不思議な感触……。 「ぁああーっ!!」  叫びとともに跳ね起きた。心臓もバクバク跳ね回っている。今更ながらどうしようもないほどの羞恥に襲われ、顔が熱い。寝間着代わりのTシャツがじっとりと肌にまとわりつくのが分かる。 (なんで……)  どうしてあの場では取り乱さずに済んだのか、今の旭には全く理解出来ない。ちょっと思い出すだけでこんなにも自分を制御出来なくなってしまうのに。  勤務中だったから? 部下の前だったから? 単に呆気に取られていたから?  そもそも彼はなんであんなことを?   はっきりしているのは、嫌な思いはしなかったということ。それだけだ。  考えていても答えは見えず。旭はもやもやした思いを払拭するために、布団を畳むと筋力トレーニングに勤しみ始めた。  筋トレ後シャワーを浴び落ち着きを取り戻した旭は、外に出ることにした。行きたい所がある訳ではない。それでも官舎の中でひとりもやもやと過ごすよりは、外の空気に触れた方が幾分マシな気がしたからだ。  ポロシャツにジーンズといったシンプルな服装に着替えると、財布とスマホ等必要最低限の荷物だけを持って部屋を出た。遠出をするつもりはなかったので、駐車場ではなく自転車置き場へと向かう。愛用のクロスバイクの鍵をはずして、市街地方向へ走り始めた。  雲一つ無い晴天。7月に入り、ますます強くなる陽射しが素肌に刺さる。ついさっきトレーニングで汗をかいてきたばかりなのに、早くも体中が汗ばみ始めた。時折吹き抜ける風が心地よい。  本格的な夏の訪れがほど近いことを知らせる蝉の声を聞きながら、旭はゆったりとペダルを漕ぐ。外気に触れながら体を動かしているだけで、先ほど胸中に渦巻いていたもやもやがうすれていくような気がした。 (さて、どこに行くか……)  そもそも気晴らしのために外に出たようなもので、特段目的地があって走り始めた訳ではない。それでも市街地に入ると、「せっかくこうやって外に出たのだから」とどこかに向かいたくなる。ちょっと足を伸ばせば複合型のスーパーがあるから、そこへ行き店内をぶらぶらしていれば取り敢えず時間は潰せるが、さて。  信号待ちの交差点で考え込んでいる時に、ふと市道沿いの一つの建物が目に入った。飾り気のないシンプルな外観の、4階建ての建物。 「あ、図書館……」  旭は思わず声に出してつぶやいてしまう。あまり足を運んではないが、その建物は昔からある市立図書館だった。今風のおしゃれさとは無縁だが、それがむしろ「らしさ」を醸し出している。  図書館に行って、空調の効いた屋内で静かに読書にふける。今の今まで全く思考に上っていなかったが、思いついてみればこれほど有意義な休日の過ごし方はないように思われた。  市立図書館は1階が一般の開架式書架になっていた。入口の壁に掛けてあった案内を見ると、2階は学習室、3階がビデオ資料等の視聴覚コーナーになっているらしい。4階は閉架なのか、一般の利用者は立ち入りは出来ないようだ。特にビデオを見る気はなかったので、旭は1階を回ることにした。  図書館内は予想通り、空調は程よく、利用者はいるものの騒がしさはなく静かだった。平日の午前中なので、小さな子供を連れた母親や定年退職後の高齢者の利用が多いようだ。時折児童書のコーナーから絵本を探す幼児の声が聞こえてくるが、うるさいというものではない。小さな子供が親に懸命に話しかけている様子は、むしろ微笑ましい気持ちになる。  ゆったりと書架を眺めて回った旭は、刑事物のミステリー小説を手に取った。自分が所属する管轄内で起きれば目も当てられないような陰惨な殺人事件も、架空の話なら他人事として安心して楽しめる。館内閲覧用の椅子に腰をおろすと、小説からページをめくり始めた。  しばらくの間架空の事件の中に没入していた旭だったが、不意に人の話し声が耳に入り意識が現実に引き戻されてしまった。 (……気のせいか?)  単行本から顔を上げ、声のした方向を見やる。  2階へと続く階段付近に、高校生らしい男子が4人ほど固まっていた。学習室へと向かうのだろう。じゃれ合いながら階段を上ろうとしている。彼らが着ている涼しげな夏制服は、旭が見慣れたあの市立高校のものだ。そしてその中に、やはり見慣れたやわらかそうな栗色の髪。 (まさか……)  その髪の持ち主が、足を止め振り向いた。瞬間、旭の心臓が高鳴る。  菊池優真だ。一瞬、目と目が合ってしまう。旭は思わずハードカバーの単行本を顔の高さまで持ち上げ、顔を完全に隠してしまった。どうか気づいてませんように。  どうしてなのか分からない。ただ、まだ準備が出来ていない。そう感じた。本来なら自分から近づいていって、何事もなかったかのように「受験、決めてくれてありがとう」と謝辞と激励を述べるのが筋なのではないかと思う。  けれど、今はダメだ。こんなにも顔が熱い。  気づかれていないか。見つかっていないか。緊張感が続く。不自然な高さに持ち上げられたハードカバーが、少しずつ重みを増していく。  2分……3分……。  そろそろ行ったか。そう思い腕を下げると、自分を覗き込むように目の前に立つ優真の姿が視界に飛び込んできた。 (うわっ!)  声に出そうになるのを、なんとか抑え込む。 「やっぱり佐倉さんだ。おはようございます」  晴れやかな笑顔。優真はまっすぐに佐倉を見つめながら、小声であいさつをする。館内なので気を遣っているのだろう。 「あ。おはよう……」  一方の旭も小声で返事をする。ただし旭は、優真を避けようとしていた後ろめたさから自然とそうなってしまっていた。ちらと優真の顔を一瞥しただけで、視線はページ上の文字を行ったり来たりしている。 「すみません、読書中に。あの、やっぱり怒ってますよね……?」 「え?」 「僕が、佐倉さんにあんなことをしたから……」  優真の声のトーンが低い。旭が視線を上げると、優真がその顔を曇らせていた。普段はまっすぐに伸びている背筋も丸まって、縮こまってしまっている。 「本当に、すみま……申し訳ありませんでした。二度とあのような馬鹿な真似はいたしません。どうか、お許しください……」  仕事でミスをした新社会人のような謝罪を述べると、深々と頭を下げた。その姿が、旭の目に痛々しく映る。過日のキスのことを言っているのだろうが、旭としては腹を立てている訳ではなく、そこまで謝られるようなことではない。  ちゃんと話をしなくては。  旭はつい先刻までの自分の態度を反省した。優真と、話がしたい。いろいろな疑問や、自分の中のもやもやを解消したい。彼としっかりと向き合う必要がある。そして自分自身とも。 (不審点があれば、それを解消しないとな)  日頃の勤務中に心がけていることを、改めて自分に言い聞かせる。職務質問も、相手に声をかけることから始める。臆して避けていては、何も分からないままだ。 「菊池くん」  旭は椅子から立ち上がる。  怒ってないよ。そう伝えたくて、出来るだけやわらかな口調で声をかけた。 「時間ある? 一緒にお茶でもどうかな?」

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