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「何、どうしたの?急に」 分からず笑って返す智哉に、暁孝は顔を上げる事が出来なかった。 「妖や、まして神の関わる場所で、俺がちゃんと見てなきゃいけなかったんだ…俺は、お前を傷つけてる。守ってやれない」 義一の話をしていて、暁孝は唐突に思い知らさた。暁孝はいつだって義一に守られてきた。その背中をいくら見てきた所で、義一のようには出来ない事を。 今頃、夢から覚めたような気分だった。下手したら、こんな風に智哉の手を繋ぐ事が出来なかったかもしれない、この笑顔を見る事は無かったかもしれない、そう考えたら突如として恐怖が押し寄せ、衝動のまま探偵社を飛び出していた。 智哉がヒノに意識を乗っ取られたのは、アカツキの社でマコとリンと三人で遊んでいた時、転んだ水溜まりだ。 昔はあの社の裏に小川があったが、今はもうない。アカツキが消えたから小川も徐々に干上がっていったのだろう。それに、あの地域には雨が降った様子もなかった。あの水溜まりは、アカツキを探し森を彷徨ったヒノの辿った跡だ。 智哉はヒノの痕跡に、運悪く触れてしまった。水に残ったヒノの強い思いが、意図せず智哉に乗り移ってしまったのだろう、だから、ヒノ自身も智哉に意識が乗り移った時の記憶があまり無いのかもしれない。 ヒノは智哉を操ろうとしたわけではなく、ただ彼女のアカツキへの思いが、彼を求めて彷徨った結果の事。 だが、それを知っていても知らなくても、森は危ないと分かっていた。イブキが守って、リン達が警戒していても、完全に安全な場所などはない。 どうしてもっと注意出来なかったのか。 優しい祖父母の顔が頭を過る。いつかまた自分は、大切な物を失くしてしまうのではと怖くなる。今、智哉を失うなんて考えられないのに。 その時、不意に智哉に手を引かれ、暁孝は顔を上げた。智哉は困惑したような、それでいて必死な表情を浮かべていた。 「逆だよ!暁はいつも俺を助けてくれるじゃん。池の中で、ヒノ様がずっとアカツキ様のこと考えてた。その中でさ、たまに暁の顔もちらついてたんだ、ヒノ様」 恐らく、智哉に乗り移った時の意識が、或いは智哉の中の思いが、ヒノの中に紛れ込んだのかもしれない。 「それは言っただろう、アカツキ様と俺を混濁したんだ」 「でも、怖かった。暁がヒノ様の所に行ったらどうしようって。本当に怖かった!そしたら、目を開けたら暁がいて、俺スゲー安心したんだぞ、あの時!」 智哉は必死な様子で言葉を繋ぐ。智哉の潤む瞳に暁孝が映っている。 「俺、傷ついたとか思わないよ、怖かったけど、暁が守ってくれたじゃん、俺は、暁が居なくなる方が怖いよ、だから、行かないでよ、どっかに、知らない所に、俺の知らない所に行くなよ…」 智哉は顔を俯けて言う。何の事だと暁孝は思ったが、震える声が、震える指先が、智哉が今までずっと自分の気持ちを抑えていた事に気付いた。智哉が泣いていたのは、暁孝が池の底から上がった時だけだ。それだって、暁孝を心配しての事。智哉はずっと誰かを心配して、いつものように笑っていたから、どれだけのものを抱えていたか気付けなかった。ずっと隣にいたのに。怖くない筈がないのに。握った手は震えていたのに。 結局、自分の事しか考えていなかった。 暁孝はその顔から目を逸らし、智哉の手を引いた。 「うわ、」 そのまま足早に歩き、人目を避けるような場所を見つけると、建物の影に入り、暁孝は智哉を振り返らせた。 「もう、急に引っ張るなって危ないだろ、」 反発する声を無視して抱き寄せる。智哉は驚いて目を丸くしたまま、次第に顔を真っ赤にさせていく。 「あ、暁?だ、誰か来たら、」 「ごめん」 「え?」 「ごめんな、怖い思いさせて。ごめん、お前が無事で良かった。俺はどこにも行かない、大丈夫、もう、大丈夫だ」 堪えきれずに思いが駆け抜け、智哉の体を包み込む。智哉はきょとんとして目を瞬いていたが、次第に、ぎゅ、と強く触れるその手の熱さに、しっかりと築き上げた筈の心の鎧が溶けだすのを感じ、それは次第に涙に変わっていく。 「……うん」 智哉は暁孝の肩に顔を伏せた。おずおずとその背中に腕を回す。遠かった背中に触れ、ぎゅ、としがみついた。 守ってやれないと言った暁孝が、本当にどこかへ行ってしまうと思った。何の力もない自分は暁孝の助けにはならない、危ない目に遭わせると分かってるなら、暁孝はもう自分を側に居させようと思わないだろう。 そうなったら、どうしよう。膨れ上がった不安が止められなかった。 だけど、隣にはまだ遠くても、暁孝は声を掛ければ振り返って待っていてくれる。それだけで、今は胸がいっぱいだ。 「一緒に帰ってこられて、良かった」と、智哉は消え入りそうな声で呟いた。暁孝はその背を撫で、智哉の髪をそっと撫でる。 「暁、行かないよな、居るよな、ここに」 「ああ、行かない、心配するな」 そう言えば、どこか安心した様子で鼻を啜る智哉が愛しくて、暁孝は温かな温もりに目を伏せた。濡れる肩、震える指に、負わせた傷の大きさを思い知る。 何故、側に居てほしいのか。暁孝は、智哉がヒノに意識を奪われたり、妖によって感じた恐怖のせいだと思い、もう二度とあんな目には遭わせないと、改めて誓う。 背中にしがみつく智哉の手が、まるで離さないでと訴えるようで、こんな智哉の姿を見たのは初めてだった。 そんな手を、離せる筈がない。甘えではなく、智哉がそうしてくれたように、いつか智哉の支えとなる事が出来るだろうか。 この手を離さないままに。 その時は、義一のように強くあれるだろうか。 いや、ならなくては。 今度は智哉をちゃんと守れるように、共に居るために。 ビルの隙間を縫うように、夕暮れが街を照らしている。それは、真っ赤な智哉の顔を少しだけ庇うようで、涙の跡を隠すようで。 暁孝はそっと彼の目元を拭う、今更弾かれたように恥ずかしがる智哉の様子に笑えば、智哉も照れながら笑った。 いつもの変わらない姿で。

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