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それから一ヶ月後、暁孝は絶句する。
「ジャジャーン!見てこれ!」
家に帰ってくるなり智哉が意気揚々と見せつけてきたのは、イズミ探偵事務所と書かれた採用通知だった。しかも、妖科 と記されている。
「転職しようと思って面接受けてたんだけど、見事採用されました!」
にっこり笑って突きつけられたそれを、暁孝は手にし、文面に目を走らせると、おもむろにそれを破こうとする。
「あ!何やってんだよ!」
智哉は暁孝のまさかの行動に、焦って書類を取り返し、無事かどうかを確認する。その姿を見て、暁孝は大きく溜め息を吐いた。
「智、お前あんな目に遭ってまだ分かんないのか?」
「分かってるよ…」
「分かってない、だからこんな軽はずみな事が出来るんだ」
一体採用したのは誰だと考え、始の顔が浮かんだ。智哉は見えない妖に対しても、おざなりではなく、コミュニケーションを取ろうとしていた。
妖にとって、ちゃんと話を聞いてくれる人間というのは大事な存在だ。人間は妖を同等には扱おうとしないから。だから、義一 が亡くなった後、妖達は探偵社に行くのを拒み、今、暁孝の元を訪れているのかもしれない。
始が智哉を迎え入れようとするのは、分かる。妖にとっての窓口には適任だろう。
しかし、賛成は出来ない。暁孝は、智哉を二度と危ない目には合わせないと決めた。だから、妖が頻繁に家を訪ねてきても、智哉には素知らぬ顔を貫いた。それは全て智哉が大事だから、智哉を思っているから。
なのに智哉は、それを分かろうとしてくれない。暁孝にとっては何故だと、憤りを感じてしまう。
だがそれは智哉だって同じだ。だけど、このままじゃいられないと思ったから、一歩踏み出す事にした。踏み出した足を引っ込めたりしたら、また同じ思いの繰り返しだ。
それでは駄目だと、智哉はきゅっと書面を掴む手に力を込める。
「軽はずみなんかじゃない、分かんないないからだよ」
その言葉に、暁孝は苛立ちに彷徨わせていた視線を止めた。智哉を見れば、彼は俯いたまま言葉を続ける。必死に何かを抑えるように。
「俺には分かんないから、暁の見てるもの。だからもっとちゃんと知りたいし、分かりたい。俺が、ちょっとでも、その…ちゃんと妖の事も理解出来たら、暁はここに居てくれるだろ?」
ここに居て、との言葉に暁孝は首を傾げる。
「…どういう意味だ、俺の家はここだ」
智哉は東京に帰ってきた時も、暁孝にどこにも行かないでと言っていたが、それは恐怖からくるものだとばかり思っていた。いまいち智哉の気持ちが伝わらず、違うのだろうかと暁孝は思案気だ。
「いや、そうだけど、そうじゃなくてさ!」
伝わらないもどかしさに、智哉は言葉を詰まらせる。だけど、どう言えばいい、どう言ってもありのままの思いが溢れてしまいそうで、智哉は躊躇う。
黙り込んだ智哉に、暁孝が不思議そうに名前を呼ぶ。智哉は、意を決して口を開いた。
「いつか暁にとって一番の理解者が出来たら、俺は要らなくなるじゃんって。今まで考えてもみなかったけど、探せばいるじゃん、妖とか神様見える人!俺、見えないから、一番にはなれないから、」
言いながら落ち込んでいく智哉の姿に、暁孝の脳裏にふと、ヒノに意識を奪われた智哉の姿が重なった。ずっと欲しかった、と囁かれた姿が過り、思わず胸がドッと打ち付け、暁孝は咄嗟に目を逸らした。
いや、何を考えているんだ。あれはアカツキに対するヒノの言葉だ、智哉が自分に向けた言葉じゃない。
暁孝は必死にそう自分に言い聞かせた。暁孝にとって特別でも、智哉にとって暁孝は幼なじみで、家族同然の付き合いだと。
だが、再び智哉に目を向けた暁孝には、見慣れた筈の智哉がただただ愛しく見えてしまって。暁孝はぎゅっと拳を握った。
智哉は何も言葉を発しない暁孝に不安を覚え、その顔を上げる事も出来ず、探偵社からの書類を見つめていた。
「…俺じゃ、足手まといかな」
そして呟かれた、どこか諦めた様子の笑みに、暁孝は弾かれたように顔を上げた。
「そんなわけないだろ!…そもそも、あんな仕事はもうしない」
「でも、皆は違う。人も妖も、暁を必要とする」
必死に感情を抑えて話す智哉は、暁孝と目を合わせようとしない。智哉と目が合わない、それだけでこんなに胸が苦しい。
焦る、何故と問う間もなく言葉が溢れ出す。いつだって、大事なのは智哉しかいないのに。
「俺が必要なのはお前だけだ」
「…え?」
智哉が顔を上げると、まっすぐな視線に射抜かれ、智哉はどきりとする。
「俺の事だって智が一番よく知ってるじゃないか」
暁孝は一歩近づいて視線を落とすと、硬直する智哉の手を掴んだ。あからさまに智哉の体がびくりと跳ね、再び顔を上げた暁孝と目が合うと、智哉はその距離の近さと、いつもと違う暁孝の雰囲気に、どっと胸を震わせ真っ赤になる。暁孝はじっと智哉を見つめ、赤い頬に手を触れた。思わず肩を震わせた智哉、その唇を暁孝の親指がなぞる。
「切れてる」
「え、」
心臓の音が頭にわんわんと響き、もう訳が分からない。そっと近づく気配に、智哉は肩を強ばらせながら、ぎゅっと目をつぶった。
智哉の手から書類が床に零れ落ちていく。
ふ、と吐息が唇を震わした。
ピンポーン
ピンポンピンポンピンポン…
突然のインターホンの連打と同時に、コツ、という額に軽い衝撃。
「イテッ」
大して痛くもなかったが、反射的に智哉の口から声が出る。
そのまま目を開けると、暁孝のなんとも言えない顔が目の前にある。目を閉じ、何かに耐えるような顔をして、それをみるみる赤くさせながら固まっている。
そして更に連打されるインターホン。智哉ははっとした様子で慌てて暁孝の肩に腕を突っ張り、いつの間にか止めていた息を吐き出して、急いで吸った。
「だ、誰、誰だろ、見て、見てくるね」
「…ああ、」
顔を上げない暁孝に、いっぱいいっぱいになりながらどうにか伝え、智哉は何もない所で躓きながら、リビングから玄関に続く廊下に出た。
忙しないインターホンが耳に入っては抜けていく。智哉は壁に半身を凭れ、改めて呼吸を整えた。
呼吸困難で死ぬかと思った。いや、心臓発作の方が先だろうか。
まさか暁孝があんな事、そう思い出せば、触れられた手も頬も、吐息を感じた唇も、何もかもが嘘みたいで、また胸が苦しくて、何をしてるんだと頭の片隅に居た冷静な自分に叱咤される。
真っ赤な顔をどう冷ませば良いだろう、智哉はパチパチと頬を手で叩き、とにかく煩悩を追い払いつつ玄関へ急いだ。
リビングに残された暁孝は、智哉と同じくらい赤い顔を歪め、ようやく頭を起こした所だ。
「…何をしてるんだ、俺は」
後悔しても遅い、いくら何でも誤魔化しようがない。智哉も智哉だ、何故抵抗しない。何やってるんだと、軽く笑い飛ばしてくれたら冗談に出来たかもしれないのに。
智哉に責任を擦り付けながら、赤い顔でぎゅっと目を閉じた彼を思い浮かべる。あれは完全に、暁孝の行動を受け入れる態勢ではなかったろうか。
「…………」
暁孝はゆっくりと両手で顔を覆い俯いた。
どうしよう、どんな顔を智哉に向ければいい、何を言葉にしたらいい。免疫が無さすぎて、脈があるのかも、更に脈があってもどうしていいのかさっぱり分からない。
そもそも、智哉との関係を変えるべきなのか。
ふと思い至った疑問に、暁孝は顔から手を離した。視界には智哉が落とした探偵社からの書類がある。
怖い思いをしたのに、智哉は自分の為になろうとしてくれている。今でも十分なのに、もっと分かろうとしてくれている。
他に自分の理解者が出来たら困ると、一番になりたいと。それは、誰にも取られたくない独占欲に聞こえる。
暁孝は書類を手に取った。同じ思いなら嬉しい。だけど、もう二度と危ない目には遭ってほしくない、妖に振り回されたりしてほしくない、智哉は暁孝にとって、帰ってこれる場所だった。どんなに妖が見える特異な体質でも、智哉と居れば自分を肯定出来た、普通の人と変わらないんだと思えた。
だから、極力巻き込みたくなかった。
「…勝手だな、俺は」
結局巻き込んで、引きずり込んで、勝手な思いを押し付けようとしている。
どうしたいかは、智哉の自由なのに。
暁孝は顔を上げた。
ならば、何があろうと、智哉を守れるように強くなればいいのだ。背けていた問題に向き合って。そうでなければ、守れやしない。智哉が理解しようと行動するなら、自分はしっかりと妖を知り学ぶべきだ。義一がそうだったように。もう、守ってくれる人は居ないのだから。
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