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 僕の本来の勤め先は、有名料理研究家の岡山苑子(おかやまそのこ)が経営する料理教室・スウィートホームクッキング。  滝口さんのオフィスを後にして、まっすぐ教室へと戻ると、ちょうどレッスン終わりの生徒さんたちがロビーを賑やかにしているところだった。僕はその和やかなようすをガラス扉の向こうに見ながら、そっと前庭を横切って、裏口の事務室へ向かう。 「ぅ、わ……っ」  僕が扉を開いた瞬間、すぐ内側に立っていた高橋(たかはし)先生が声を上げた。いままさにタイムカードを切るところだったらしい彼は、僕の出現に驚いて、薄いカードを取り落としそうになってさえいる。 「ただいま戻りました……というか、すみません。変なタイミングでしたね」 「あっ……いえ! 大丈夫ですっ……こっちこそ、びっくりしすぎですみません……」  高橋章太(しょうた)先生は、現在教室に二名在籍する男性講師の内の一人。僕より三つ歳上……だけど、彼はたしか早生まれの二十九歳。……なのに、言葉どおり済まなそうに肩を縮めて恐縮している姿は、その童顔もあいまってとてもそうは見えなかった。  でも、仕事ぶりはいっそ意外なくらいに堅実な人だ。  僕は残念ながら彼のレッスンを受ける立場にはないけれど、先生──この教室のスタッフが呼ぶ「先生」は、岡山苑子のことだ──の口からは、たびたび彼の仕事に対する信頼の言葉を聞いている。 「あ、それより、おかえりなさい。紫藤君、今日もずっと滝口さんのところだったんですね」 「はい」  高橋先生は性格もかなり控えめで、僕相手にも敬語を崩さない。彼はカードを所定の位置に戻すと、柔らかな笑顔で「お疲れさまでした」と労ってくれる。……僕みたいに、造り物の笑顔じゃなかった。  なんだか気が抜けてしまうくらい、無防備な優しさ。彼の内側にあるそれを掬い取って形にしたみたいな、そんな笑顔だ。

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