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「滝口君の方はどう、順調? 彼、新しく自分の会社を持つのだっけ。そうそう。僕も、行待(ゆきまち)さんて方とは挨拶だけさせてもらったことがあるよ。ちょっと前のパーティーに滝口君が連れて来てたでしょう。きりっとした女の子」 「行待さんは、滝口さんのマネージャーのようなお仕事をずっとされてる方ですね。滝口さんがうちの教室に在籍されてる時から、メディア露出の方のスケジューリングや契約・報酬関連の書類周りを任されてたそうです。新会社でも、彼女が事務仕事を一手に引き受けることになると思います」 「マネージャーかあ」  クマさんは旨そうにコーヒーのカップを傾けて、うんうんと首肯する。 「滝口君はうちで講師始めた瞬間から売れっ子だったからね。彼の受講応募をスタートさせた途端、あれよあれよといううちに席が埋まっちゃってさ。僕なんかあっという間に追い抜かされて……。スウィートホームクッキングはもうずっと、お苑ちゃんと滝口君のレッスンが人気ツートップだったね」 「僕が知っているのはここ二年ほどですが、確かに、クマさんの言われるとおりですね」 「ついに独立なんだねえ。いずれはそうなるだろうなあって思っていたはずなのに、いざ彼が辞めちゃうと、なんだか変に寂しいというか……なかなか実感が湧かないね」  それは教室の人間みんなに目を配り、分け隔てなく気を掛けていてくれる、クマさんらしい発言だ。彼のおおらかな優しさはスウィートホームクッキングをまるごと包んでいて、だからこそ、この職場は居心地が良い。  僕は心の中に暖かな微笑ましさを覚えたものの、残念ながら、それを上手く言葉にして伝えるスキルを持っていない。結果、「そうですね」と頷くだけになった。  クマさんは僕の淡泊な反応には慣れたようすで、のんびりと世間話を続ける。 「こうして紫藤君を通せば滝口君のようすも聞けるけど、そのうちそれもなくなっちゃうんだから、そうしたら彼はほんとに僕なんかには遠い存在になるんだろうなあ。……そういえば、紫藤君がいまやってる『お手伝い』って、そんなに長くは掛からないものなんだよね?」 「はい。滝口さんの会社が……というか、滝口さんが経営することになるキッチンスタジオが、真冬頃オープン予定なので……」 「あれっ、スタジオなんて持つんだっけ?」 「はい」  びっくり眼のクマさんは、あだ名のとおり、ちょっとユーモラスなクマっぽい。僕はもしかしたら失礼に当たるかもしれないそんな感想を抱いてしまいながら、キーボードの上の指を止める。

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