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「そんなわけで、余計な心配はご無用ってことで! とはいえそれとは関係なく、今夜はここで失礼します。まじすんませんっした!」 「え、ちょっ……」  おめでとうって言うはずの僕の声に先んじて、大輔は退室の挨拶をしている。帰宅の意思はそうとう堅いらしく、しっかりと僕の腕を引いて部屋の出口に向かう。  そんなにがっつり掴まれてたら、僕もさすがに従うしかない。戸惑いながらも歩き出そうとすると、その反対側の手が、くんとつまずくみたいに抵抗を得たんだった。 (え?)  とっさに振り向けば、滝口さんと目が合う。 「え……」  僕の手を、滝口さんが掴んでる。  まるで引き止めるみたいに。  でも、なんで? 「あ、あの」 「智史? どーしたの」  僕の声と、篠宮君の声とが重なる。  滝口さんはテーブルに片手を着いて、体を大きく乗り出してまでこちらに手を伸ばしていた。  なのに、何を言うでもない。  ただ僕の腕を掴む指に、じわり、と力が込められる。 「智史ってば! もうほんと何してんの、瑠姫めちゃくちゃ困ってるじゃん」 「あ、いえ、僕は……」  僕を気遣ってか、篠宮君は強めに呆れ声を放った。僕はそんな彼に向けて首を振る。なんだろう。よくわからないけれど、いま優先されるべきは僕の都合じゃなくて、滝口さんの気持ちの方なんだ。そんな気がした。 「滝口さん、あの」  だから僕は体の正面を滝口さんに向けて、ゆっくりと彼に呼び掛ける。  いつも、滝口さんが僕にそうしてくれていたように。 「僕、ちゃんとお話を聞きますから。なんでも言って、ください」 「瑠姫君」 「はい」 「俺は、君のことが好きだったよ」  太陽のまばゆい光をかたちに取ったみたいな金の砂が、項垂れたままの蕾の上に、きらきらと降る。  それは過ぎ去った時間の幻影。  鮮やかな幻。  金の砂も、滝口さんの言葉も、どちらも本当はここにはない。実体がないから、僕には触れられない。 「……はい」  僕は良く出来た笑顔の仮面を装着して、「ありがとうございます」なんて答えてる。 「だけど、もうそれは過去形ですよね。僕は……滝口さんには、いまの気持ちを大切にしていてほしいです」 「いまの気持ち?」 「はい。──篠宮君のことを、いちばんに大事にしてあげてください」  僕がそう言うと、滝口さんの指からはすっと力が抜けていった。男らしく節立ってすんなり伸びている、綺麗な指。それはゆっくり空を滑って、彼の脇に落ちてゆく。 「そう、だよな」  まるで夢から覚めた人のように呟いて、滝口さんは小さく笑った。 「何を、言ってるんだろうね、俺は。ほんと、今更だ。……ごめん、瑠姫君」 「いいえ」  肺の中にぱんぱんに綿を詰められたみたいに、息が苦しい。でも僕は、声を、仮面の笑顔を、揺らすわけにはいかなかった。  大丈夫。こんなのなんでもない。 (だって)  滝口さんに出会えただけで、僕の人生、まるごと報われているんだから。 「気にしないでください。僕も気にしません。──それじゃ、さよなら」

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