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 僕はいったん集中すると時間を忘れてしまう性質で、その夜も、気が付いたらとっくに終電の時間が過ぎてた。  僕だけなら、余裕で始発まで作業を続けられる。テンションも集中力も良い感じ。なにより明日は土曜で休みだし、電車が動いてから家に帰って寝ればいい。  とはいえ、先輩にまでそんな無理を強いるわけにはいかない。  僕はキーボードを打つ指を止めて、「先輩」と呼び掛けようとした。タクシー拾って、先に帰ってください。そう、伝えようとしたんだ。  でも出来なかった。  先輩の方を振り返ろうとした僕の顎先を掬い上げて、いきなり、唇が重なってきたから。  え!?  何が起きたのかわからない。そんなふうに硬直してる間に、僕はデスクに押し倒される。信じられないくらいの強い力で押さえつけられながら、体をまさぐられた。唇以外にもキスを落とされて、舐められて。なに。  なに、これ。 (誰)  僕の名前を呼ぶ声も、時折、熱っぽい目を合わせてくる顔も、間違いなく先輩だ。  だけど、これはもう『知らない誰か』でしかなかった。 (いやだ……!)  ひどく遅れて、僕はじたばたと抵抗を始める。先輩は僕よりもずっと逞しくて、生粋の体育会系。難なく僕の自由を封じながら、『抵抗するなって』と笑った。 『瑠姫だって、俺のこと好きだろ?』  そんなことない。  そういう意味で好きだったことなんて、一瞬もない。 『強がんなくてもわかってるからさ。素直になれって。俺に任せてれば、気持ちよくしてやるよ』  わかってる、ってなに。  僕の声を、言葉を、そんなふうに取り上げて──僕を人形みたいに好きに扱うことが、先輩の。  頭の中がぐちゃぐちゃになって、僕はもう自分が死んでもいいから、この男を許すもんかと思った。絶対に、好きにはさせない。息を詰めて、奥歯を噛み締める。その時だった。 『紫藤君から、は、離れなさい……ッ』  ひどく上擦った金切り声が、空っぽのオフィスに響く。さすがに先輩も驚いたようすで、僕から身を離した。 『なんすか、あんた。──つか、経理の××部長?』 『わ、わたしのことはいい』 『はは、カッターナイフなんか握っちゃって。正義の味方っすか? そんなへっぴり腰でさあ、俺に適うと思ってんのかよ、アァ!?』  今まで一度も聞いたことがない粗暴な声で、先輩は相手を恫喝する。照明の光が届くぎりぎりの暗がり。そこに立っているのは確かに、僕も何度か挨拶だけはしたことがある経理部の部長だった。  彼のがたがたと震える手には、銀色の刃が鈍く光るカッターナイフ。  結論から言えば、先輩は、捨て身の覚悟で突進した部長に、片方の手の平をざっくりと刺されるんだ。  そしてそこに、騒ぎに気付いた警備員がやって来て、問答無用で警察を呼ばれてしまう。言い逃れようのない流血沙汰。  しかも、男同士の痴情のもつれ。  僕と先輩のいざこざだけじゃなくて、実際のところ、部長はすでに二年近く、僕のストーカーをしていたらしいということも知った。彼の自室には僕の隠し撮りばかりが、写真、動画、音声を問わず山を成すほどあって、この夜も部長は僕と先輩の会話をぜんぶ盗聴していたようだ、と後から警察に聞かされたんだ。

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