49 / 70

9 -03

「瑠姫君」 「……!」  ふいに呼び掛けられて、僕はぎゅっと肩をすくめる。体が強張る。……怖くて、振り返ることも出来ない。だって。  笑えないよ。  僕は、もう。 (滝口さん) 「ごめん。瑠姫君の定時を過ぎたから、様子を見に来たんだけど……仕事は、終わった?」  あんまり長居をしたら、迷惑になる。そう思って、ここへの出向が決まった時に、僕の方からスウィートホームクッキングとおなじ時間を『定時』だと伝えていた。……そういう区切りを付けないと、僕はいつまでだってパソコンに向かってしまうから。 「終わっ……て、ない、です、でも、帰ります」 「うん」  振り向くことも出来ないまま、窓に向かって答える僕に、滝口さんはやわらかく頷く。 「お疲れさま。帰る時、キッチンに寄ってくれるかな」 「……」  はい、なんてたった二文字も、僕には言えない。  滝口さんがそれをどう思ったのかは、わからなかった。「じゃあ、出てく時に声掛けてね」と言い置いて、彼は事務室の戸口を離れる。その気配と足音が廊下を遠ざかっていって、やがてスタジオのフロアの中へと消える。  それを、僕は耳と背中にぜんぶの意識を注ぎ込んで確かめた。 「──……」  はあ、と全身から力が抜けてゆく。  こんな態度、きっとすごく失礼だ。そう思うのに、僕にとって滝口さんはもう、安心出来る人じゃなくなってた。  滝口さんが悪いわけじゃない。ただ、僕が臆病なだけ。  どくどくと血を流す僕の恋は、もうほとんど真っ二つ。とっくに致命傷を負っているから、これ以上はオーバーキル。何より僕自身が、あとちょっとの傷も耐えられそうにない。  でもきっと、僕は滝口さんの顔を見れば勝手に傷付いてしまう。その瞳の色や、目線の動きひとつからでも、「以前とこんなに違う」と感じ取ってしまうんだ。  だから、ほんとは逃げ出したい。  だって笑えないよ。こんなに痛いのに、怖いのに、笑えないよ。でも。 (これが、最後、だから)  ありったけの勇気を集めて、僕は笑わなくちゃ。  綺麗なだけの、笑顔の仮面には頼れない。僕が自分で壊してしまった。だから、剥き出しの自分のままで。 (笑うんだ)  さよならと、ありがとう。  僕が滝口さんに伝えたい、たったふたつの言葉を、まっすぐ届けられるように。

ともだちにシェアしよう!