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「瑠姫君」
「……!」
ふいに呼び掛けられて、僕はぎゅっと肩をすくめる。体が強張る。……怖くて、振り返ることも出来ない。だって。
笑えないよ。
僕は、もう。
(滝口さん)
「ごめん。瑠姫君の定時を過ぎたから、様子を見に来たんだけど……仕事は、終わった?」
あんまり長居をしたら、迷惑になる。そう思って、ここへの出向が決まった時に、僕の方からスウィートホームクッキングとおなじ時間を『定時』だと伝えていた。……そういう区切りを付けないと、僕はいつまでだってパソコンに向かってしまうから。
「終わっ……て、ない、です、でも、帰ります」
「うん」
振り向くことも出来ないまま、窓に向かって答える僕に、滝口さんはやわらかく頷く。
「お疲れさま。帰る時、キッチンに寄ってくれるかな」
「……」
はい、なんてたった二文字も、僕には言えない。
滝口さんがそれをどう思ったのかは、わからなかった。「じゃあ、出てく時に声掛けてね」と言い置いて、彼は事務室の戸口を離れる。その気配と足音が廊下を遠ざかっていって、やがてスタジオのフロアの中へと消える。
それを、僕は耳と背中にぜんぶの意識を注ぎ込んで確かめた。
「──……」
はあ、と全身から力が抜けてゆく。
こんな態度、きっとすごく失礼だ。そう思うのに、僕にとって滝口さんはもう、安心出来る人じゃなくなってた。
滝口さんが悪いわけじゃない。ただ、僕が臆病なだけ。
どくどくと血を流す僕の恋は、もうほとんど真っ二つ。とっくに致命傷を負っているから、これ以上はオーバーキル。何より僕自身が、あとちょっとの傷も耐えられそうにない。
でもきっと、僕は滝口さんの顔を見れば勝手に傷付いてしまう。その瞳の色や、目線の動きひとつからでも、「以前とこんなに違う」と感じ取ってしまうんだ。
だから、ほんとは逃げ出したい。
だって笑えないよ。こんなに痛いのに、怖いのに、笑えないよ。でも。
(これが、最後、だから)
ありったけの勇気を集めて、僕は笑わなくちゃ。
綺麗なだけの、笑顔の仮面には頼れない。僕が自分で壊してしまった。だから、剥き出しの自分のままで。
(笑うんだ)
さよならと、ありがとう。
僕が滝口さんに伝えたい、たったふたつの言葉を、まっすぐ届けられるように。
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