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2. 君の熱に触れた日

 ドキドキしながらいつもの公園に足を踏み入れて、いつものベンチに目をやる。 (----いた)  目的の姿があったことにほんの少しホッとしながら、昨日の自分が吐いた台詞の気障さが照れ臭くて、何て声をかけたらいいんだかなんて悩む途中。 「--------たきがわ」 「----っ」  風に乗って微かに届いた司の声に、さっきまでとは違う音とリズムで心臓が自己主張する。  彼と言葉を交わすようになってから初めてだった。オレが声をかけるよりも先に、司がオレの名前を呼んでくれたのは。  それだけでこんなにも胸が高鳴るだなんて、初恋を知った中学生じゃあるまいし、どれだけ純情なんだよなんて。  思うくせに嗤えないのは、そんな純情も悪くないと思えるほどに司を好きだからなんだろうか。  自分ですら持て余すこの想いを、どこにも誰にも表現できないまま。ただひたすらに膨れ上がる想いに、1人混乱するしかない。  戸惑いと喜びとが複雑に絡み合って揺れる心に落ち着けと言い聞かせながら、抑えきれない喜びのせいでどうしても歪んでしまう口元を隠せないままで、司の座るベンチへ足早に向かった。 「良かった、来てくれて」  にこりと儚いながらも柔らかく笑った司は、やっぱり今日も薄着だ。日中だから今はまだいいとしても、日が落ちればまた随分と寒いに違いない。  何がそうさせるのか。どうしてそんなにも自分を痛めつけようとするのか----聞いてしまいたい衝動をやり過ごして、司の隣に腰を下ろす。 「良かったはこっちの台詞だよ。風邪とか引いてない?」 「ん。大丈夫」  ありがと、とはにかむ唇とぎこちなく細められた目に同じように微笑んで見せながら、少し顔色が悪いように思える司をじっと見つめる。  頬の辺りが火照ったように紅く見えるのは、気のせいだろうか。  声をかけようとしたのに、ずい、と差し出された紙袋に遮られる。 「ありがと」 「ぁ……うん」  紙袋に入っているのは、綺麗に畳まれたコートで。 「おかげであったかかったよ」 「……そっか」  柔らかく笑う口元。  けれどその目は何かを諦めたまま、いつも通りに哀しみに沈んでいて。  紙袋を受け取って、次の会話の糸口を見つけられずにモゴモゴするのは。たぶん、司の視線の先にいる誰かを、どうしようもなく意識してしまうせいだ。  紙袋を握りしめたまま、足もとの砂を爪先で蹴り上げる。 「………………----司」 「ん?」  どれくらいの間そうしていただろう。  いじけたみたいなオレの沈黙も気にせず、隣に黙って座っている司に。  顔は向けないままで、口を開いた。 「れ、の、……こと」 「ん?」 「----誰、を。待ってんの? いつも」 「--------…………」  静かに驚いて悲しむ気配が、隣。  顔はやっぱり上げられないのに。  司の目が、哀しく揺れているだろうことが手に取るように解って。 「----ごめん」  違う、忘れて。  そんな風に付け足して顔を上げたら。  声もなくぽたぽたと涙を流す司がいて呆然としながら。  ----胸が。  苦しくて、張り裂けると思った。  こんなにも静かな哀しみは、知らない。  痛くて痛くて、苦しくて。  オレまで苦しみに喘ぎながら、堪らずに抱き寄せた華奢な躰。突然のことに強ばった躰は、やけに細くてやけに熱い。  ごめん、違うんだ。そんな風に泣かせたかった訳じゃなくて、ただ知らない誰かが憎らしいくらいに羨ましくて、つい聞いただけなんだ。  心だか頭だか分からないところで、慌てたオレがそんな風に口走ってるのに。  現実のオレは、司の躰をただ強く抱き締めることしか出来ない。  こうなって一番驚いてるのは、きっとオレの方だ。  自分から抱き締めたくせに、動揺して身動きのとれないオレの腕の中にちょこんと収まったままの司は。  身動きもせずに、ただはらはらと涙を流し続けていた。  ***** 「----誰、を。待ってんの? いつも」  瀧川が不意に放った言葉が、オレの中の何を刺激したのかは分からない。  待っていても仕方ないのに何をしてるんだろうと、自分で自分を責めたのかもしれない。  どれだけ待っても意味はないんだって改めて気づかされて、打ちのめされたのかもしれない。  ただ、あの日以来流せずに自分の中で溜め込んでた涙が、急に堰を切ったみたいに溢れ出ているのが事実で。  自分でも戸惑うしかない。  いったい自分の中のどこにこんなにもたくさん溜め込んでいられたんだろうなんて、自分のことながらに呆れて途方に暮れていたら。  俯いていた瀧川が不意に顔を上げて、オレの顔を見て心底傷ついたみたいな顔をする。  別に瀧川が悪い訳じゃないよ。なんか急に涙が、勝手に出てきただけ。自分でも、なんで泣いてるんだかよく分かんないくらい。  そう言ってやりたかったはずなのに、喉が閉まったみたいに声が出ない。  哀しいのか、怒ってるのか、苦しんでるのか。そのどれもなのか。顔を歪めた瀧川は、何も言わずにオレを抱き寄せた。  そうされたことに驚いたのに、相変わらず声は出なくて。  昨日のコートと同じ温もりに強く抱き締められたら。  今度こそ涙を止められなくなった。  *****  どれくらいの時間そうしていたんだろう。  随分長い間だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。  ただ腕の中に大人しく収まったままの司の躰の熱さが、やけに気になって。 「……司?」 「……ん」  止めどなく溢れる司の涙を吸い込んだオレのシャツ。司の手が、濡れた辺りを気にしてごしごしと拭うみたいに撫でる。 「シャツなんてすぐ乾くから」  大丈夫だよと笑って見せてから、それより、と顔を覗き込んだ先。  泣きすぎて充血した目と、赤くなった鼻。  今日会った時から気になっていた頬の色も、やけに血色が良いのは本当に泣いたせいだけなのだろうか。  抱き締めるなんて大胆なことをしたせいか、もう躊躇いもなにもなく、その滑らかな額に自分の額を寄せていた。 「…………司、熱出てない?」 「……ぇ?」 「熱、出てるんじゃない? 熱いよ、おでこ」 「…………そう?」 「そう」  涙に掠れた声が、キョトンと呟いて。  そうかなと首を傾げた司に、返してもらったばかりのコートを着せる。 「たきがわ?」 「送るよ」 「ぇ?」 「家まで送る」 「な、に」 「風邪引いてないなんて、嘘ばっか。熱出てるじゃん」 「……」  ぽかんとしたままの司の細い手を掴んで立ち上がる。 「家、どこ?」 「……ぇと」 「それとも、病院行く?」 「ぇ、いや……」  そんな大袈裟な、とオロオロした司に、そっと苦笑してみせる。 「司一人で帰らせるの、オレが心配だから。送らせて」 「ぁ……」 「ね?」 「…………」  何度かウロウロと宙を彷徨った視線が、オレに戻ってきた後。  こくんと頭が揺れて。 「ありがと」  小さな声でそう呟いてくれた。  *****  手首を引かれて瀧川にぽてぽてとついて行くオレの姿は、周りの人からどう見えてるんだろう。  小さな子供みたいで格好悪いなと思うのに、瀧川の優しい手のひらは熱で火照った体に柔らかい温もりを伝えてくれて、戸惑うのと同時に酷く安心した。  着せられたコートが背中からオレを包んで、前を歩く瀧川の後ろ姿がオレを守ってくれてる。  そんな深くて大きな安心感がオレを満たしていて、戸惑いと罪悪感が入り混じって心の中が騒がしい。  ----だけど。 「大丈夫?」 「……うん」  時折振り返ってくれる優しくて心配性な瀧川の目は、オレの心をすっと落ち着かせてくれた。  頼っていいよ。  瀧川の目が、声が、身にまとう空気が。オレにそう伝えてくれるから。  せめて今だけはそれに甘えさせてと、見えない誰かと自分に言い訳して。  体格も年齢もそんなに変わらないのに大きく見える背中をそっと。  頼もしく誇らしく見つめていた。  *****  ここだよ、と教えられて立ち止まった一軒家は、意外にも自分が一人で暮らすマンションから自転車圏内の場所にあった。  ご近所さんとは言い難いものの、生活圏は同じだったんだなとぼんやり思ってから。  引いていた司の手を、名残惜しく放す。 「今日はちゃんと、あったかくして寝なきゃダメだよ」 「うん」 「あと、水分ちゃんと摂って、汗かいたらコマメに着替えて。それから」 「----」  あれもこれもと思いつく端から並べていたら、ふふ、と小さな笑い声が聞こえて。  熱のせいで赤い顔した司がなんだか嬉しそうに笑っているのを見つけて、驚くよりもまずトキめいてしまうんだから、オレも大概重症だ。 「……なんで笑うかな」  真面目に言ってんのにとむくれて見せたら、ごめんごめんと笑った司が。 「だってやっぱり、お母さんみたいだから」 「……お母さんって……」  その言葉を聞くのは2回目だと、内心落ち込みながらも。ふふふ、と楽しそうに----嬉しそうに笑う姿を見ていたら、どうでも良くなってしまう。  ぽふ、と。  気付いたら手のひらが勝手に、司の頭を撫でていて。  何やってんだ!? なんて思ったものの、同じように驚いた顔した司に、ぎこちなく笑って見せる。 「心配なんだよ、司のこと」 「…………うん」  言い聞かせるみたいに言った本音に、司が笑いを引っ込めて頷いて。 「ありがと」  はにかんで呟くその台詞が、胸をあったかく満たすのと同時に。  また、苦しくなった。  愛しくて愛しくて、息が出来ないくらいに愛しくて。  思わず口走りそうになった「好き」の一言を、苦しい胸に無理やり飲み込んでから、わしゃわしゃと司の頭を撫でる。 「……風邪、治ったら」 「ん?」 「また、会える?」 「……--------うん」 「……ん」  頷いてくれたことにホッとして、司の頭に触れていた手で細い背中をそっと押す。 「ゆっくり休んで、早く元気になって」 「……ん」  我ながら、確かに母親めいたことを、なんて思うけれど。  ほてほてと歩いて玄関の扉を開ける後ろ姿は細くて頼りなくて、不安を煽られてしまう。 「----司」  思わず呼び止めた声は、自分が思うより大きな音で響いて。 「ん?」 「また……オレ、あの場所で待ってるから」  きょとんと振り向いた赤い顔に、わとわたと言葉を続けたら。 「----うん。ありがと」  司はこっくりと頷いて----笑ってくれた。  ドアの向こうに消えた司の背中を、納得いくまで見つめた後。 「------------っ」  頭を抱えてしゃがみ込む。 (何やってんのオレ何やってんのオレ何やってんのオレ!!)  よくも大胆なことをしてくれたなと数十分前の自分をやたらめったら罵りながら、混乱する心で思い浮かべるのは赤い顔ではにかむ司の「ありがとう」だ。  自分の大胆さとお節介さを、けれど嘲笑うことなく受け入れてくれた。  あんなにも静かに誰かを想って泣いていた司が、別れ際にはちゃんと笑ってくれた。  そのことにどうしようもなくホッとして、よろよろと立ち上がる。 「……早く、治ると良いな」  家の中のどこにいるかも分からない司に祈りを込めてそう呟いたら、まだ回復しきらずに混乱したままの心を抱えて家路についた。

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