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3. 密やかな記憶

 司が熱を出して家まで送っていったあの日から3日経った。  あの日以来、司の姿をまだ一度も見ていなくて。  嫌われたりはしていないはずだと自分に言い聞かせながらも、落ち着かない日々を過ごしていた。  風邪なんだからと自分を納得させながらも、本当にまた会えるんだろうかと不安になる繰り返し。  今までだって毎日会っていた訳でもないのに、お節介が過ぎたんじゃないかと落ち込んで。でもコートを貸しっぱなしだからきっと返しに来てくれるはずと、小さな希望を見いだしたりして。  落ち着かない毎日にぐったりと疲れて乗り込んだ、学校帰りの電車の中で欠伸をかみ殺す。  今日はこの後バイトだった。公園に立ち寄る暇はなさそうだなと、溜め息をついて窓の外に目をやる。  疲れた目に眩しい、澄んだ青い空。  眩しさに目を細めながら思い出すのは、切実な表情で空を見つめていた司の姿だ。  いったい誰を想って何を願っていたんだろう、なんて。想像もつかないのに、じっと窓の外を見つめてみる。  少しでも気持ちが分かればいいのに、なんて叶いそうもない願いを浮かべたら、溜め息をもう一つ。  とりあえず今は、元気になった司の姿を早く見たい、なんて小さな願いを胸に浮かべてから電車を降りた。  *****  瀧川に送られて家に帰ったあの日、見慣れないコート姿で帰ったオレに、家族は驚きながらもフラフラになるまで体の不調を黙っていたことを、強く叱ってくれた。  バカじゃないのと怒りながらも、自室までの移動に肩を貸してくれた姉と。  とにかく温かくして寝なさいと、瀧川と同じことを言った母親と。  夜遅くに帰宅したはずの父親は、オレが熱を出したと知って、24時間営業のスーパーで桃缶とリンゴを買って帰ってくれたらしい。  なんだか幼い子供に対するみたいに、みんなからとことん甘やかされて。恐縮しながらも、嬉しくて照れくさかった。  ----ずっと。  本当にずっと、長い間。  心配されることも、気を遣われることも。  煩わしくて、鬱陶しくて。  あまり深く関わらないようにと、家族に対しても上辺だけを取り繕って接していたはずなのに。  あれこれと世話を焼いてくれる母親や、散々言いたい放題オレのことを貶しながらも、暇だろうからと漫画本を差し入れてくれる姉や。不器用に扉をノックして母親が切ったらしいリンゴを枕元に置いたら、すい、と部屋を出て行く父親の。  その暖かさが、素直にありがたいと感じられた。  急にそんな風に受け止め方が変わったのはなんでなんだろうと、自分でも首を傾げながら。  ふとした時に思い浮かぶのは、手を引いて歩いてくれた瀧川の優しい背中だ。  頼りになる温かい背中が、今もオレを励ましてくれているような気がして。  そう思うだけで、すとんと憑き物が落ちたみたいに気持ちが楽になって。  迎えに来てもらえない苦しさが、ほんの少しだけ和らいだような気がする。  いつも、何かに焦っていた。  苦しくて哀しくて悔しくて、情けなくて淋しくて、申し訳なくて。  素直にもなれない、前にも後ろにも歩き出せない。そんなオレが彼の代わりに生き残ってしまったという、やるせなさと虚しさに襲われて。どうしようもない痛みを持て余しながら、誰にも弱音や----まして彼への想いなんて伝えるわけにもいかずに喘いでいたところに。  みんなから寄ってたかって心配されたり、見当違いな言葉で励まされたりして。  ----反発を、反射的に覚えてしまった。  腫れ物扱いされる煩わしさと、そうさせてしまう自分の情けなさ。誰にも告げずに紡いできた二人だけの愛しい時間が、そんな自分を追い詰めて。頑なに拒否してしまった。  愛しさと幸せに満ちた他愛もない喜びの毎日を、誰一人知らないくせに。安っぽい慰めや押しつけがましい心配なんていらないと、何を考えるよりも先に心を閉ざしながら。  日常生活に支障が出ては困ると考えたズル賢い自分が、当たり障りなく日常を過ごせるように上っ面で生活することを選ばせていた。  なのに今は。お節介で不器用な家族からの労りが、照れくさくて心地良い。  ----今だけかもしれない。  熱で体が弱っているせいかもしれない。  それでも。  彼を失ったあの日から初めて。  少しだけ前に踏み出せたような気がした。  ***** 「…………瀧川!」  司を送っていった日から5日目のこと。  もう会えないかもしれないだなんて少し気落ちしていたところに、司の初めて聞くような元気な声が聞こえてきて、驚きのあまりベンチから立ち上がる。  声のした方を見れば、ちゃんと春物のコートを着た司がパタパタとこちらへ走ってくるところで。 「司」  ホッとしたのと同時に、自分の顔に笑みが浮かぶのが分かる。  最後に見たのが熱で弱った姿だったせいもあるけれど、その変わり様は予想外で。  なんだか知らない誰かと会っているみたいで少し落ち着かないのに。  オレの後ろにあるベンチを見つめる仕草に、オレの知ってる司だと安心して。少しだけ曇る瞳に、あぁまだ待つことを諦めた訳じゃないんだなと思い知らされて、複雑な気持ちが胸を占めるけれど。 「良かった、またちゃんと会えて」 「……待ってるって、言ったでしょ」 「うん、そうだね」  にこりとはにかむ顔は、以前よりも生気に満ちていて、ドキリと胸の奥の方が跳ねる。 「元気になったみたいで良かったよ。今日はコートもちゃんと着てるんだ」  えらいえらいと笑って見せたら、むぅ、と膨れる司が。----可愛くてドギマギした。 「……着ないと外出させないって、言われて」 「……そっか」  ぶつぶつ文句を言いながらも、ほんの少し照れくさそうな顔が印象的だった。  ずっとあんな格好で寒い外に留まって、周囲は何も思わないのだろうかと心配していたのだ。  何よりも、あんなにも辛くて苦しそうな目をさせたままでいるなんて一体どういうことなんだろうと、見たこともない誰かを詰ったこともある。  ----けれど、どうやらわだかまりは解けたらしい。すっきりとした司の表情からは、以前あった陰が少し薄れたように見える。  ホッとする反面、彼を支えてやれなかったんだと思い知らされて、淋しいような悔しいような気分になった。 「----そうだ。これ、ありがとね」 「あ……うん」  前と同じように律儀に紙袋に入れられたコートは、ベルトの類が全て外れた状態になっていて、どうやらクリーニングにも出してくれたようだった。 「……そのままで良かったのに」 「ううん。ちゃんとしなきゃダメって、怒られたから」 「怒られた? 誰に」 「姉ちゃん」 「……そっか」  すとん、と当たり前のようにベンチに座った司が、眩しそうな顔で空を仰ぐ。 「姉ちゃんに、親しき仲にも礼儀ありなんだから、大事な友達にこそちゃんとしなきゃダメだって、言われたんだ」  返すの遅くなってごめんねと謝る司に首を振って見せながら、『大事な友達』の一言がやけに嬉しくて----妙に淋しい。  そんな我が儘を思い浮かべながら紙袋を持ったまま突っ立っていれば、司がキョトンと首を傾げて。 「座んないの?」  ぽむぽむとベンチの右隣を手のひらで軽く叩かれて、うん、と笑う。  ぎくしゃくと歩いて司の隣に座ったら。  ふふ、と笑った司が、うん、と伸びをして笑った。 「ありがとね、瀧川」 「ん?」 「ありがとう」 「……別に、何もしてないよ」  そう。  笑った顔が見たいと、思っていたはずなのに。  どうしてこんなにも。  悔しくて、苦しくて、切なくなるんだろう。  目の前の司は、太陽の光の下で気持ちよさそうに笑っているというのに。  そっと、司から目を逸らして空を仰ぐ。  柔らかな日差しと、綺麗な青空に。  今日はなぜだか、心をトゲトゲと刺激されて。  どうしてなんだろう。  笑っている姿を見られて、嬉しいはずなのに。  どうしてこんなにも----泣きたいほどに哀しくて悔しいんだろう。  落ち込んでいて欲しかったとでも言いたいのかと、不満を並べる心を叱り飛ばしてみても。  どうしても素直に司の笑顔を受け止められなくて、自分の情けなさを嗤うしかない。 「------------瀧川」 「……ぇ?」  キョトンと覗き込まれて我に返っても。  前と同じように微笑み返すのが難しくて。  怪訝な表情をする司から、不自然に視線を逸らすことしかできなかった。  *****  あの日借りたコートを手に、久しぶりに訪れた公園のいつものベンチに瀧川は居た。  そのことが妙に嬉しくて、名前を呼んで駆け寄った時は、瀧川はいつもの笑顔でオレを迎えてくれたのに。  瀧川はなんでだか、時間が経つごとに元気がなくなっていって。 「------------瀧川」 「……ぇ?」  覗き込んで目を見つめたのに、不自然に視線を外されてしまう。  ----痛い。  そんな風に思って、胸の辺りに手をやる。  瀧川、ともう一度呼んだ名前に、うん、と頷く声が聞こえた後。  瀧川はぎこちない仕草でこっちを向いて、いつも通りを装った歪んだ顔で笑った。 「ごめんごめん」  ボーッとしちゃった。  そんな風に取り繕った瀧川が、いつも通りとはほど遠い顔で笑うから。 「----やっぱり」 「ん?」 「……会いたく、なかった……?」 「----ッ、ちがっ」  迷惑だったのだろうかと淋しく哀しく呟いたら、瀧川は弾かれたみたいに慌てて首を横に振った。 「違うよ。そんなことない」 「……けど」 「絶対」  違うよとこちらを見つめてくれる目は、こないだまでと同じで、強くてやけに真っ直ぐだ。  その目の力強さに、ホッとして笑う。 「そか、良かった」  落ち込んだり嬉しくなったり、心がやけに忙しくて戸惑う。  ここのところずっと、こんな風に何かに左右されることなんてなかった心が急にマトモに動いて、どう受け止めればいいのか自分でもよく分からなくなる。  それでも、オレを見つめてくれる瞳に励まされて笑った。 「瀧川が元気ないと、調子狂っちゃうね」  こんなの久しぶりだと、空を見上げて胸の内で呟く。  彼がいた頃は。  彼が笑えば嬉しくなったし、彼が落ち込んでいたらオレまで哀しくなった。良い意味でも悪い意味でも、彼の感情に左右されることは確かにあって。  だけど、彼がいなくなって以来ずっと、そんなことはなかったというのに。今またあの頃と同じようなことが起きているのだと気付いて、ふと胸が痛むのが分かる。  ----これは裏切りではないのだと、後ろめたく胸の内で言い訳しながら。  彼は今のオレをどう思っているのだろうかと仰ぎ見る空は、青く澄んだまま。  応えの返らない問いは、胸の奥に苦く消える。  隣で頭を抱えていた瀧川がしばらくしてから、ふぅ、と気持ちを切り替えるみたいに息を吐き出して。 「--------今度」 「ん?」  ぽつりと、今度はちゃんとオレの方に真っ直ぐ向いて呟く瀧川に、空から視線を移したら。 「…………いつか、聞かせて」 「……何を?」 「…………待ってる、人、の……こと」 「--------……」 「いつか、で、いいから」  真剣な目。  辛そうに寄せられた眉。  微かに震える唇。  瀧川の優しさと躊躇いが、その表情から伝わってきて。気付けば自然と頷いていた。  誰かに話すことなんて、考えたこともなかったのに。瀧川の真っ直ぐな眼差しになら、話せるような----話したいような気がして。 「ありがとう」  ホッとしたみたいに呟いた瀧川の声が、ごめんに聞こえて。  少しだけ、救われた気がした。  ***** 「司」 「----章悟」 「ごめんね、待たせちゃって」  息を切らして駆け寄った、人気のない公園の片隅にある古びたベンチ。  そこが君の指定席。  他にもベンチはあるのに、いつも公園の隅にある目立たないベンチで君はオレを待っていてくれる。  オレ達が付き合い始めたのは、大学の合格発表があった日。  そもそも志望校の違っていたオレ達は、今まで通り仲の良い友人として、これからも続いていくはずだった。  ----オレさえ我慢していれば、その関係のままでこれから先も続いてくのだと思っていた。  合格発表の日を迎えて晴れて二人ともが大学生になれると分かった日に、オレがポロリと零してしまったのだ。 「淋しくなるね」 「……うん、そうだね」  たった、それだけのことだった。  別に脈絡から考えてもなんの違和感もない一言だった。  なのに。  動揺したのだ。淋しいと無意識の内に零してしまった自分に。  そして。  そうだね、と。  淋しそうにしょんぼりと呟いた君の姿に。  自制心には自信があったはずなのに、そんな小さなやり取りに酷く動揺して。気付けば今にも泣き出しそうに見えた君の頬に、手のひらを添えた後だった。  取り繕うはずだったのだ。頬に触れるだなんて、そんなこと。するつもりも、してしまった自覚も全くなかったのに。  高校3年間で膨らんでしまった想いは、滑らかな頬に触れた瞬間に、----制御不能になった。 「……章悟?」  首を傾げる、年にも性別にも不相応な。なのに、とんでもなく愛らしい仕草に。  オレを無視して暴走する想いは。  唇で唇を塞ぐ暴挙に出て、オレを狼狽えさせた。  なのに、しっとりと重なるその心地よさは、涙が出そうなくらいに愛おしくて。  離せなくなってしまった。  突き飛ばされることもなく、抵抗らしい抵抗も見せない君をここぞとばかりに貪ったのは、後から思い出しても最低の行為だったと反省しているけれど。正直なところ、あのキスの恐ろしいほどの気持ちよさと言ったら、他の何とも比べられないのに他の何にも勝っていて。  そんな気持ちよさの向こうの君が無反応すぎて不安になって、名残惜しく唇を離して見つめる先で。  君が静かに泣いているのを見つけて、胸が破れそうなくらいに痛くなった。 「----っ、ごめ」  取り戻した理性が、泣きそうになりながらそう叫ばせたけれど。 「----オ、レ……」 「ぇ?」 「き、って……」 「司?」 「すきって……言っていいの?」 「え?」 「しょう、ごに……好きって……言って、いいの?」  ぱたぱたと落ちていく、透明な雫。  それと同じくらいに綺麗に澄んだ瞳が、ひたむきにオレを見つめていて。  そのときに胸を襲った衝動は、今も忘れられない。  あんなにも心揺さぶられ、心ときめいたのは初めてのことだった。  衝動に任せて君を抱き寄せて、その耳元で呻くように囁いた、「好き」の一言。  狭い喉を無理やりこじ開けるみたいに放ったその声は、酷く掠れていたけれど。  バクバクとうるさく鳴り響く心音に、脳までもガンガン殴られてるみたいな錯覚を覚えて。  このトキメキに、殺されるんじゃないか、なんて。  バカみたいなことを考えながら。  いっそ本望だと笑って、もう一度紡いだ「好き」を。  泣いたまま笑って、受け止めた君の。  太陽みたいに眩しいのに、春の陽だまりみたいに優しくて温かい笑顔は、オレの一生の宝物になった。  その愛しい笑顔は----今も目の前にある。 「今日はどうする?」 「んっとねー」  どうしよっかなぁと嬉しそうに無邪気に笑う君は、高校生の頃と変わることなく素直で可愛い。 (……あぁ……ホントに……)  司は可愛いなぁ、だなんて。  あの頃は必死の理性で覆い隠した愛しさを、今は隠さずに済む奇跡を噛みしめる。  もちろん、所構わずイチャつくほどバカじゃないし、何より男同士という見た目からもハッキリと分かる障壁を自覚しているから。  外では手も繋がないし、普通の友人として隣に立っている。  けれど、愛しいと思う心を、表情を。隠さずに済むようになったことが、どれほどの救いになっていることか。  ただの友人として隣に立っていた頃は、そんなことにすら気を遣わなければならなかったのだから、今の幸運を感謝せずにはいられない。  あの日、ああして想いを伝えることがなかったら、----今頃、とんでもない形で想いが決壊して、取り返しがつかないような壊れ方をしていたかもしれない、だなんて恐ろしい想像をしてから。  とりあえずご飯食べに行こうよと笑った君に頷いて、本当は繋ぎたい手をポケットに突っ込んで君の隣。  こうして傍に立っていられるだけで幸せなんだと、戒めにも似た言葉で自分を納得させてから。 「行こっか」  笑って促して公園を出た。  誰かの歌じゃないけれど。  これから先、泣いたり笑ったり、喧嘩したり、仲直りしたり。傷つけ合ったり、慰め合ったり。  そんな風に、当たり前に過ごす未来を信じて疑わなかったオレは。  その時々の幸せを、どれだけの想いで噛みしめていただろう。  まさか、こんなにも呆気なく----終わってしまうなんて。  解るはずもなかったから。  物足りないくらいだったのかもしれない。  当たり前の毎日を当たり前に過ごすと言うことは、「当たり前」を疎かにすることと同義だ。 「--------章悟!!」  耳を貫いた君の悲鳴。  あぁ、笑ってあげなきゃと思って。  大丈夫だよと、慰めてあげなきゃと思って。  体を動かそうと藻掻くのに、実際には、指先がカリとコンクリートを引っ掻いただけで。  早く早くと焦るのに、焦れば焦った分だけ動かない体に恐怖が募る。  こんな、ところで。  終わって堪るかと。  思うのに、体が言うことを聞かないばかりか、君がオレを呼ぶ声までも遠のいていくようで。  まだまだ、幸せの途中なのだ。  今までに通り過ぎてきた恋なんて、目じゃないくらいの愛なのだ。  こんな、ことくらいで。  ----手放せるはずがないのだ。  掴むはずだった、君の手。  優しく見つめ返すはずだった、あの綺麗な瞳。  まだ。  何も、始まっていない。  まだ。  何も、終わっていない。  こんなもの、痛くもかゆくもない。  こんなところで、こんなことで。  失えるはずがないのだから。  ----だから。  お願いだから。 「つかさ」  悲しませないと胸に誓ったというのに。  愛しさはこの瞬間でさえ、切なく胸を締め付けていると言うのに。  こんなにも、強く。  願っているというのに。 「つ、かさ」  この目は、今、開いているのだろうか。  この耳は今、機能しているのだろうか。  訪れた暗闇と静寂の中で。  ただ強く。  君だけを求めていた。 「つかさ」

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