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4. 雨が連れてきた虹

「……参ったな」  ぽつぽつと顔に当たる雨粒に気付いて空を見上げてぼやいた途端に、雨足が強くなった。  慌てて雨宿りできそうな場所を探したものの、公園の中には屋根のある休憩所や遊具は見当たらない。  キョロキョロと視線を動かす間にも、雨は強さを増していくようで。  雨に濡れて鬱陶しく張り付いた前髪を掻き上げて、今日は帰るかと出入り口に目をやれば 「--------司?」  同じように傘を持たずに、ぼんやりと立ち尽くしている華奢な姿を見つけた。 「……アイツ……」  雨宿りを急ぐ気配もなく立ち尽くして空を仰いでいる姿は、突然の雨に途方に暮れていると言うよりもわざと雨に打たれているようにしか見えなくて。  イライラと司の元へ駆け寄った。 「司!」 「ぇ? ----あ、瀧川」  驚いた瞳がオレを捕らえた後で、いつも通りにこりとのんきに笑う。 「どしたの?」 「どしたのじゃないよ! 何のんきなこと言ってんの! 走るよ!」  ぐぃ、と腕を引いて、公園を出てから一番近い所にあった人気のないビルの庇の下に駆け込む。 「こんな土砂降りの中で突っ立って、何してんのホントに」  また風邪引いても知らないよと、怒って言ってるのに司は嬉しそうに笑って。 「ホント、お母さんみたい」 「--------っ、司!」 「……分かってるよ、ごめんなさい」  怒られちゃった、とでも言うかのように照れ笑う無邪気さに、さすがに呆れて溜め息を一つ。  ぱたぱたと顔に滴り落ちてくる水滴をしかめ面で拭っていたら、司の細い指先がオレの前髪をきゅっと絞って。 「瀧川だってびしょ濡れじゃん。風邪引くよ?」 「----っ、オレは平気だよ」  その仕草が妙に親密で艶めかしく思えて、ドギマギしながら目を逸らす。  そんなオレの動揺も知らずに、止みそうもない雨空をのんきに見上げている司が視界の端。  濡れていることさえ気にも留めていないような無頓着さに、苛立ちと哀しみとが沸き起こる苦しい胸の内を。  抑えつけられずに、イライラと呟く。 「大事にしなって、言ってるのに」 「ぇ? なんて?」  聞こえなかったらしい司に顔を覗き込まれて。  その距離の近さにドギマギしながら。 「大事に! しなって言ってるじゃん、自分のこと」 「……うん。……でも、今日は急に降ってきたんだから、不可抗力だよ」 「だったらなんで、すぐに雨宿りしなかった?」 「…………それ、は……」  ぷぃ、とわかりやすく目を逸らした司に、デコピンを一発。 「ぃたっ」 「----司が。誰のこと待ってるのかなんて、知らないけど」 「っ」 「……ちゃんと、大事にしなよ」 「……」  怯んで揺れた目を、見つめて。 「自分のこと大事にしないのって……大切な人を蔑ろにするのと同じことだよ」 「ぁ……」 「待ってるんでしょ、大切な人のこと」  拗ねるみたいに悔しく呟いた言葉に、驚いたみたいに見開かれていた司の目がオロオロと揺れて唇が微かに震える。 「だ……っ、て……」 「だって……?」 「…………もう……」  逢えないんだもん。  淋しそうで哀しそうな、逢いたくて仕方ない想いが滲む小さな小さな呟きが。  なのに耳にハッキリと残って、オレの心を揺さぶった。 (----もう、逢えない……?)  何故ずっと待っているのだろうと、考えを巡らせていた時に想像していた最悪のパターン。  胸の奥の方が痛くて、心臓が罪の意識に震えて息苦しい程早く動く。  そんなオレの後悔に追い打ちをかけるみたいに、司は俯いて声を絞り出した。 「…………オレが、オレを、大事に……しても、しなくても、もう一緒だよ……」 「つか」 「しょうごは……もう、迎えに来てくれない」 「っ」  今度はキッパリと呟かれたそのセリフに怯んだオレを、助けを求める目がギッと睨んで。 「っ、どんだけ待っても! もう、……来てくんないんだよ!!」  癇癪を起こした子供のようにそう叫んだ司の。  目尻に光った雫は。  雨だったのか、涙だったのか。  それを確かめる隙さえ与えてはくれずに、まだ降り続く雨の中へ司が駆け出す。 「----っ、ちょ、待って!」  条件反射で後を追いかけて、雨の中へ飛び出した。  *****  ひくひくと喉が震えて、上手く息が出来ない。  拭っても拭っても頬を伝っていく雫が、涙なのか雨なのかも解らない。  闇雲に駆けだしたはずなのに、体は勝手に公園のベンチを目指していて。  そこへ行ったって、無駄なのに。  もうこれ以上----打ちのめされたくないのに。  どうしてもそこへ足が向いてしまうのは、なんでなんだろう。  息が震えるのに合わせるみたいに指先が震えるのを、手を握りしめることで誤魔化してぐいぐいと目を擦る。  どうしてなんだろう。  独りでいた時は勿論、家族や友人や----彼を知る人と一緒にいる時には、こんな風に取り乱したりしないのに。 『自分のこと大事にしないのって……大切な人を蔑ろにするのと同じことだよ』  あんな、台詞。他の誰かに似たようなこと言われた時は、訳知り顔で受け流せていたというのに。  どうして、今日に限って----瀧川に、言われた時に限って。  こんなにも、掻き乱されるんだろう。 「しょうご……っ、……しょぉご!!」  迎えに来て。早く。  今すぐ。 「しょうご!!」  こんな苦しいところに。  独りで置いていかないで。 「----章悟!!」  助けて、今すぐ。  こんなにも痛くて辛いのは、あの日以来初めて。  もう、何も聞きたくない。  これ以上、何も。  誰にも、なんにも言われたくない。  ----なのに。  冷えた腕をがしっと掴む手のひらを感じた瞬間に、声を出して泣いたのは。  どうしようもない安心感に包まれたせいで。  後から後から溢れ出る涙を、自分の力では止められずに。  泣きじゃくるオレを、あわあわと見つめていた瀧川が、やがておずおずと躊躇いがちにオレを抱き寄せるまで。  オレは、子供みたいに手放しで泣くことしかできなかった。  *****  小さな子供が泣きじゃくるみたいな必死さで。  司は、全身で泣いていた。  この間から泣かせてばかりいるような気がして、何やってんだと自分で自分にイライラと舌打ちする。  笑顔を見たいと願うくせに、実際に笑顔を見せられたら、自分が笑わせてやりたかったのにと見当違いに憮然として。  泣かせるつもりなんてこれっぽっちもないのに、気付けば不用意な一言で泣かせていて。 (何やってんだよ、オレは)  躊躇いながら抱き寄せた後も泣き続けている司の姿に、後悔と申し訳なさで苦しくなる。  司の背に回した腕に力が入るのは、自分の不甲斐なさが赦せないせいだ。  細い体をきつくきつく抱き締めて、雨粒に目をこらす。  そうでもしないと、自分まで泣いてしまいそうだった。  哀しいとか、淋しいとか、切ないとか。  そんな生易しい感情じゃないくらいに、わぁわぁ泣きじゃくる司は。  オレの背に、腕を回そうとはしなくて。  垂れた腕の先でぎゅっと握りしめられたままの拳が、まだ何かを堪え忍んでるみたいだと思いついたら。  その手を取って、強引に自分の背に回していた。  驚いて肩を揺らした司の泣き声が、一瞬小さくなる。 「ごめん。……もう、邪魔しないから」  好きなだけ泣いていいよ。  耳元にそう囁いたら、オレの背中をウロウロしていた司の手の平が、背中側のコートをきつく握りしめて。  意外なほどに強い力で縋り付いてきた司の、その華奢な背中をあやすように撫でながら。 「大丈夫だから」  泣いていいよと、繰り返し囁いて。  苦しい息遣いの下で泣きじゃくる司が落ち着くまでの間、ずっと背中を撫で続けていた。  *****  ぐしゅぐしゅと鼻をすすり上げながら、ひくひくと鳴って落ち着かない喉を持て余し始めた頃。  苦しいくらいに強くオレを抱き締めていた瀧川が、そっとオレの顔を覗き込んできて。  咄嗟に俯いて顔を隠した。 「だめ」 「ん?」 「見ちゃだめ」 「なんで」 「やだ」  こんな顔見られたくないとボソボソ呟いたら、瀧川がそっと微笑う気配がして。  俯いていた頭のてっぺんを、優しい手のひらでぽふぽふと撫でてくれる。 「見ないから。とりあえず、移動しよう」 「どこに」  燃えるように熱い顔を、泣きすぎて痺れた手のひらで挟んで冷やしながら聞いたら。うん、と少し迷った瀧川が 「…………オレん家、来る?」 「ぇ?」 「司、びしょ濡れだし。司ン家より、オレの家の方が近いから」 「……でも」 「一人暮らしで誰かに気ぃ遣う必要もないし。そんなびしょ濡れで帰ったら、家の人に色々聞かれちゃうでしょ」  そんな風に提案しながら、どうかな、と不安そうな声を出した。 「……床とか、濡らしちゃうよ?」 「いいよ、そんなの。拭けば済むし」  結局はオレの返事を聞かずに、ぐぃっとオレの腕を引いた瀧川が。 「……雨……」 「?」 「やんだね」  家に誘った時の不安そうな声と違って、明るい声でそう笑うから。  つられたみたいに顔を上げて、雲の隙間から差し込む光を見上げる。 「……ホントだ……」 「やんで良かったね。…………ま、もうずぶ濡れだけど」  軽い調子で笑った瀧川が、オレの頬に触れて。 「ごめんね」 「ぇ?」 「泣かせるようなこと言って」 「ぁ……」 「……今度こそ、待ってるね」 「何、を」 「司から話してくれるまで」  にこりと笑った瀧川の手のひらが、ぐいぐいとオレの頬を拭って去っていく。 「待ってるよ」  ずっと、と付け足して微笑んだ瀧川が、行こう、と促して強く手を引いてくれる。  つんのめるみたいに歩き出しながら。  強引な優しさが、今はなんだか有り難いような気がした。 「ちょっとそのまま待ってて。タオル取ってくるから」  あの日と同じように、瀧川に手を引かれて辿り着いたマンションの一室。  玄関にオレを残して部屋の中に消えた瀧川が、タオルを何枚か持って走って戻ってくる。  瀧川が行き来した道にも水滴は残ってるのに。 「はい、これ」  瀧川は、ぱさ、とオレの頭にタオルを被せてがしがしと拭いてくれる。 「……ホント、お母さんみたいだね」 「……うん、まぁいいや、お母さんでも」  苦笑いでそう呟いた瀧川が、タオルの間からオレを見つめて。 「司、思ったより冷えてるね。シャワー使って、温まりな。その間に着替え持ってくるから」 「え、いいよそんなの」 「いいから。また風邪引いちゃうよ」 「でも、瀧川だって濡れてるんだし」 「オレは後で大丈夫」  な? と笑った瀧川が、強引に腕を引くから。  わたわたと靴を脱いで、手を引かれるまま浴室へ。 「濡れた服は、とりあえず洗濯機に入れといていいよ」 「ぁ、うん……」 「着替え、ちゃんと準備しとくから」 「うん……」 「ちゃんと温まってから出ておいでよ」 「……うん」  相変わらずお母さんみたいな小言を沢山並べて、瀧川は忙しそうに浴室を出て行く。  ありがたさと申し訳なさを持て余しながら、濡れて脱ぎにくい服に手をかけた。  *****  司に貸す服を見繕う前に、自分も濡れた服を苦労して脱いで。ざっと体を拭いたら、とりあえず乾いた服に着替えてしまう。未だポタポタと水が滴り落ちてくる頭には、一時しのぎにタオルを巻き付けておく。  どさくさ紛れに強く抱き締めた体は随分と華奢だったなと思い出しながら、タンスをごそごそと探って。  これなら多少サイズが違っても気にならないだろうと、ジャージの上下を揃えて風呂場に向かう。 「司、着替え置いとくから」 「あ、ありがと」  わかりやすい場所に着替えと新しいバスタオルを置いて、自分が脱いだ分の服を洗濯機に放り込んでスイッチを入れたら。  その後ろで響くシャワーの音に今更気付いて。  ギクリと、胸の奥が跳ねた。  下心なんて、あるはずがなかった。  それなのに。  今、まさにすぐ傍で。  大好きな人がシャワーを浴びているのだということに、今更気付いて。  欲を、掻き立てられた。 (----何考えてんだよオレはッ)  生理現象ながらに、自己嫌悪が止められない。  落ち着けと言い聞かせながら、乾いたタオルを手に廊下の水滴を拭いて回る。  ドギマギと跳ねる心臓の音がうるさくて。  わざとドタバタ動き回りながら、邪な想いを必死で振り払った。  *****  ほどよく温まって浴室を出たら、ジャージ一式と乾いたタオル。それから封の開いてない新品の下着まで置いてあって、申し訳なさに恐縮してしまう。  とはいえ、自分の着ていたものは、既に洗濯機の中でぐるぐると洗われている最中だ。  後でちゃんとお礼言わなきゃとぶつぶつ呟きながら、ありがたく着替えてわしゃわしゃと髪の毛を拭く。  貸してもらったジャージは、全体的に少し大きい気がして。ついさっき抱き締めてくれていた瀧川の逞しさを思い出して、自分との差に少しだけ凹む。見た目はそんなに変わらないと思うのに、いわゆる細マッチョというやつだろうか、なんて考えながら。 (あったかかったなぁ……)  冷たい雨の中で自分を包んでくれた温もりを思い出して、ホッと息が零れた。  瀧川の前では格好悪いところしか見せてない気がするな、なんて情けなくなりながらも。  唇から零れるのは、安堵の溜め息だ。  あの日の背中が伝えてくれた安心感が、オレの心の殻を溶かしてるのかもしれない、なんて。らしくないことを考えて、照れ臭く笑う。  ふと目に入った洗面台の鏡に映る自分の顔は、そのことを裏付けるみたいにいつもよりも穏やかな顔で笑っていて。  ----いつの間に、こんな風に笑えるようになったんだろう、なんて。  その理由を、今はまだ考えたくなくて。 「……瀧川、お風呂と着替え、ありがとう」  そんな風に、思い浮かびそうになった気持ちを誤魔化すみたいに瀧川へ声をかけながら浴室を出て、長くない廊下をほてほてと歩く。 「お。ちゃんと温まった?」 「うん」 「よしよし」  行き着いた小さなキッチンで、瀧川がにっこりと笑ってくれる。  わしゃわしゃと頭を撫でられて、子供じゃないんだからと抗議しながらも、心地よくてホッとした。 「瀧川ってさ」 「ん?」 「ホントお母さんみたいだね」 「……そう?」 「うん。なんか……安心する」  そっと笑ったら、複雑な表情でそっかと呟いた瀧川が。すぐに、まいっかと笑って。 「洗濯終わったら、コインランドリーで乾燥機かけてくるから、もうちょいそれで我慢してな」 「え、いいよ、そんなの」 「その格好で帰ったら、何か言われたり、聞かれたりするでしょ?」 「……」 「大丈夫。コインランドリーすぐ近くにあるから」  な、と笑った瀧川が、気にするなっていうみたいに頭をぽふぽふ叩いてくれて。  その優しさが嬉しくて、もそもそ頷くことしか出来なかった。  *****  強引に家に連れてきたのは、本当に下心なんてなくて。ただ、司が風邪を引かないようにと思ってのことだった。  だから実際に着替えもシャワーも終わったら、何を話せばいいのか解らなくて。  さっき泣かせてしまった手前、何を話題にすればいいのかも分からずに。  結局、気まずく黙っていることしか出来ない。  何か話題をと、内心焦っていたのに。 「……瀧川」 「ふぇっ!?」  司が不意にオレを呼んで。  突然のことに驚いて変な声が出たオレを、訝しげに見つめた司が。  数秒遅れてぷっと吹き出す。 「何、今の声」 「ぇっ……いやっ……てか、笑い過ぎじゃない!?」 「だって、……おかし……どっから出たの、今の声……」  目尻に涙まで浮かべながら苦しそうに笑う司に、オレも照れくさい苦笑いを浮かべてから。 「……で、なんだったの?」  司の笑いの発作が治まるまで待ってそう聞けば、司は咳払いの後に、うん、と頷いて。  オレを真っ直ぐに見つめてきた。 「ありがと」 「……ぇ?」 「今日は、色々、ありがと」  一言一言噛みしめるみたいに呟く司に、困惑してオロオロと手を振った。 「何、そんな……改まって。……だって、オレが」  泣かせたのに、と呟きかけて、はぐ、と言葉を飲み込む。  せっかく司が笑ってくれてるのに何蒸し返してんだよ、なんて思ったけど。司は、にこやかに穏やかにオレを見つめていて。 「……オレ……。……オレね、瀧川」 「……うん?」 「あんなに泣いたの、久しぶりで」 「----ぅ……ごめん」 「違くて」  しょんぼりと謝ったオレに、司はそっと笑って首を横に振ってくれた。 「ずっと、ね……。泣けなくて。……哀しかったし、辛かったし、苦しかったんだけどね……なんか、ずっと……泣けなかったんだよね」 「……」 「我慢してた訳でもないのに、なんか……ずっと、空っぽだったんだ、オレ。オレの中に、何も残ってなくて。……淋しいとか、そういうの……全部、どっかに置いてきちゃったみたいな……。なんか、ずっと……ぼんやりしてた」  考え考え口を開く司に、うんと頷いてみせて先を促す。 「……でもなんか……瀧川、安心するから」 「……あん、しん……」 「なんか……最近…………すごく、楽」  ふわ、と笑った司の表情は、その言葉の通りに今までで一番柔らかい。 「だからね。ありがとう、瀧川。……泣いていいよって……言ってくれて、……嬉しかった」  はにかむ司が、目の前。訥々とそんな風に言われて。  すごく嬉しくて、照れ臭くて。鼓動がまた、うるさいくらいに鳴り響いてる。  なのに、気の利いたことの一つも言えないオレは。  照れ臭く頭を掻いて、そっと笑うことしか出来なかった。

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