10 / 11

8. 失えない人

 司がオレを好きだと言ってくれた日から、心がふわふわして浮き足立っているのが自分でも分かる。初恋が叶って浮かれる少女漫画の主人公じゃあるまいし、なんて思うのに。  幸せが心を満たして、愛しさが体中を満たして。  あぁ、本当はこんなにも愛しくて苦しくて幸せなんだと、今までのおままごとの恋を恥じると同時に胸の中で詫びる。だけど今更、本人に直接謝る訳にもいかないし、されても迷惑だろう。心の中でひたすら謝り倒してから、今日もまたいつものベンチに向かう。  付き合い始めても待ち合わせの場所は変わらない。変わったのは、約束して待ち合わせるようになったことくらいだ。  時々は食事にも行くけれど、バイトや学校の兼ね合いもあってそんなに頻繁ではない。章悟のことで塞ぎ込んでいた間に小食になってしまったという司は、一回の食事量が驚くほど少ないこともあって、カフェやファーストフードでお茶をすることの方が多い。  今日はどうしようか、なんて思っていたら。 「----瀧川」 「司」  ベンチに着くよりも先に愛しい声に呼ばれて、嬉しく振り返ったら、司がどこか強ばった顔で笑っていて。 「…………どしたの? なんかあった?」 「ん……」  オロオロと声をかけたら、オレの態度が狼狽えすぎていておかしかったのか、司がほんの少し頬を緩めてくれる。  だけど司は結局、迷うままの目で躊躇いがちに口を開いた。 「…………今日…………行きたいとこ、……あって……」 「うん?」 「いっしょ、に……行ってくれる?」 「そりゃもちろんいいけど。……どこに行きたいの?」 「------------章悟の、とこ……」 「……」  固い声で呟いた司が、今にも泣き出しそうに潤んだ目を見開いて涙を堪えている。 「…………今日…………命日、だって……気付いたんだ、今朝」 「めい、にち……」 「……ずっと……考えないようにしてたんだけど……。……今朝、急に……思い出して」  段々小さくなる声は、微かに震えて今にも消えてしまいそうで。  だけど、突然突き付けられた「命日」なんて重い言葉に、オレ自身も真綿で包まれたみたいに息苦しくなる。  目の前の司はもっと苦しいんだろうなと思ったら、掠れた声で聞き返していた。 「…………どこに、行くの?」 「…………とりあえず、事故が、あったとこに……行こうと、思って……」 「…………それ、オレも……行っていいの?」 「うん」  こっくりと頷いた司は。  オレの服の裾を、きゅっと不安そうに掴む。その仕草は、まるで迷子の子供みたいに幼くて頼りない。 「一人、で……行く勇気…………なくて……」 「司……」 「一人で、行ったら……また、そこから……動けなくなるかもしんないって………………恐くて。…………こんなん、瀧川に頼むことじゃないって、分かってるんだけど……。でも……他に、頼める人、いなくて……」  情けなくてごめん、と項垂れた司の頭を、なんとか動揺から立ち直ってぽふぽふと撫でる。 「分かった。----一緒に、行こう」 「…………ありがと」  *****  2年前の今日。  章悟は、オレの代わりに死んだ。  あの日以来ずっと、ここには来られなかった。遠目に見ることはあっても、意識して避けていたのが本音だ。  去年の今日は1日中、公園のベンチに座って章悟の迎えを待っていた。  今年は。 「……大丈夫?」 「ん……」  優しい温もりが、隣でオレを支えてくれている。  オレを心配そうに見つめていた瀧川が、事故のあった交差点の手前でそっと背中を押してくれた。 「ここで、見てる。……絶対、ここで待ってるから。…………行っておいで」 「--------ん」  震える足と震える手に気付いている筈の瀧川は、それでもオレを甘やかすことなく。ただ、傍でじっとオレを見つめてくれていて。  よろよろと、あの日転んで手をついた辺りを、通り過ぎたら。  ちょうど目線の先、交差点のガードレールの脇に置いてある綺麗な花束に目を奪われて。  そこから一歩も動けなくなった。  交通事故現場にありがちな所謂仏花ではなく、美しく整えられた花の姿は、今もまだ彼を慕う誰かがちゃんとここに来ているという証で。  ----息が出来なくなった。  不意打ちで殴られたみたいに、息が出来なくなった。  苦しくて苦しくて、なのに花束から目を逸らせない。  あんな風に、いつまでも慕われる彼を、オレの----オレなんかの代わりに、死なせてしまった。 「----っは……ッ」  足が震える。  息が出来なくて、目の前がチカチカする。 「はッ……っ……っしょ、ぉご」  数え切れないくらいのごめんなさいが、頭の中を駆け巡る。  あの日の自分の、悲鳴じみた声が心に蘇って呼吸を奪っていく。 「は……ッ、ぁ」  あの日、嗄れた声が。  今また音になって、口をついて出る。 「しょ、ご」  なのに、息ができなくて。  苦しくて苦しくて、情けなく泣き叫びそうになった時だ。 「----司」  優しく心配する声がオレの耳に届いて、ハッと顔を上げる。 「た、き、がわ……」  息苦しさに喘ぎながら呟いた声が、呪縛を解いて。  力が抜けたみたいに、その場にくずおれる。 「つかさっ」  慌てた声と、駆け寄る足音。  とめどなく溢れる涙は、なんの涙だろう。 「大丈夫?」  心配そうな今にも泣き出しそうに歪んだ瀧川の目が、オレを覗き込んで。  その真っ直ぐな目が、オレの視線を花束から絡め取ってくれる。 「オ、レ……やっ、ぱり……」  痛そうな顔でオレを覗き込む瀧川に、口走りそうになった一言を。  だけど瀧川は、人差し指をオレの唇に当てることで塞いだ。 「後で聞く」 「……」 「今は、聞いてやらないよ、司」 「……」 「----行こう」  にこり、と。  痛い目をしたままで、それでも優しく笑った唇。  オレの腕をそっと引いて、力の入らない足で立ち上がったオレを、そっと横から支えてくれる。 「……今、オレが……司の恋人じゃなくなったら。……オレは、司を----こんな風には、支えてあげられないから」 「……たきがわ……」 「だから、まだ待って。……もうちょっとだけ……今のままで、いいじゃん。……オレのこと……恋人ってことに、しといてよ」  ね、と泣き笑いの表情でオレに告げた瀧川が、さっき見つけた花束の傍までオレを支えて連れてきてくれる。  瀧川の支えがなければ、今にも地面にへたり込みそうなくらいに酷く震えていたオレに。 「ねぇ、司」 「……な、に……」 「ごめんね。オレ、今から、酷いこと言う」 「ぇ?」  へにゃ、と情けなく眉尻を下げた瀧川は、無理に笑ってそう宣言した。  どういう意味、と震える唇では紡げずに。  伺う目で瀧川を見たら。 「オレは、ずっと……章悟が………………、羨ましかったよ」 「な、に……言って……」 「ずっとずっと----司が好きなのは、章悟で。…………今だって、もう……章悟のことしか、頭にないくらい……章悟のこと、好きなんでしょ」 「な、に……」 「羨ましいよ。章悟が。…………すっげぇ、羨ましい」 「……」  呟いた瀧川の目は。  今までに見たことがないくらいに暗くて、少しだけ恐くなる。 「…………だけど。だからこそ、辛かっただろうなって、思うよ。……こんな風に、好きな人、置いてくの……ホントに、辛かっただろうなって……。ホントに、まだまだこれからだって、思ってただろうなって……思うけど」  でも、と言葉を区切った瀧川が。  申し訳なさそうな顔で、オレを見つめる。 「でも……司が、今ここに、生きて立っててくれることが、オレは----どうしようもないくらい、嬉しい」 「……」 「だから、ごめん。……オレは、今日。章悟に……ありがとうを、言いに来たんだ」 「たきがわ……」  意外な言葉に驚いたオレに、瀧川が。  哀しいと淋しいと照れ臭いが混じったみたいな、複雑な顔で笑ってくれる。 「司が……ここに来て……やっぱり章悟じゃなきゃダメだって……思うような、気がしてた。……ちょっとだけ……それでもオレを選んでくれるのを、期待してたんだけどね」  失敗したなぁ、なんて。  痛そうな顔で笑った瀧川が、ぽむ、とオレの頭を。  いつもよりも優しく、撫でてくれる。 「----それでも、言いに来たかったんだよ。司が、今も……これから先も。……どんだけ苦しい想いするかは、分かんないけど……。それでも、司を、助けてくれてありがとうって……司がこれから、いくらでも幸せに……なれるように見守っててあげてって、言いたかったんだ」  愛しさを、隠そうとしない目が。  手が。  声が。  オレを包んで。  優しく笑った瀧川がもう一度呟いたごめんねが、オレを癒してくれる。 「泣かないで、司。……オレ、もう…………慰めてあげらんないから」 「ど、して……」 「章悟に、返すよ、司のこと」 「どして」 「……どしてって……」  言わせちゃう? なんて。  悔しそうな声が情けなく呟いて、たはー、と泣き出しそうな顔で笑った瀧川が、それでも声を振り絞る。 「だって、章悟のこと……好き、なんでしょ」 「………………うん」 「なら、もう。章悟にかえ」 「---------でも。……でも、同じだけ、瀧川のこと……すきだよ」  何かを言いかけた瀧川の声を遮って放った声は震えなかったけど、涙は止められなかった。 「章悟のことは、すき。今でも、すごく。……でも、今、オレがここに立ってられるのは……瀧川の好きに、支えられてるからだよ」 「……つかさ……」 「……勝手に、オレが……瀧川のこと好きじゃないみたいに言わないで。…………さっきは確かにちょっとだけ……章悟に、申し訳なくて……顔向け、出来ないような気がして。……オレだけ幸せになんか……なっちゃだめだって、思ったけど……」 「つかさ」 「……だけどね、瀧川。……オレ、自分でも、びっくりしたんだけどね。……オレね、欲張りだったみたい。……瀧川のこと、失くしたくないって、思ってるんだ。……すごい、申し訳なくて、後ろめたいんだけど……。だけど、……瀧川のこと、失くしたく、ない」 「つかさ」  笑った筈なのに止めどなく流れ続ける涙を、戸惑ったままの瀧川の指が、そっと拭ってくれる。  その手を、取って。 「傍に、いて」 「つかさ……」 「…………自分が、こんなにも欲張りだったなんて、知らなかったけど。……でも、今、自分に嘘ついて、瀧川の手を離したら、後悔するから。……瀧川のこと、失くしたく、ないから。……章悟も、瀧川も。どっちも失くしたくないとか、我が儘だって、分かってるけど……。傍に、いてください」  俯かずに言い切ったオレに。  瀧川はやっと、照れ臭そうな顔で笑って頷いてくれた。 「もちろんだよ」

ともだちにシェアしよう!