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第3話
翌日、ウィルが午前中の最後の講義を終えると、ジャックが教室の教職員用の出入り口に立っていた。
講義生の最後の生徒が教室から出て行くと、まだ教卓にいるウィルの元に足早にやって来る。
「ウィル、話がある。
俺のオフィスに来い」
ジャックの口調は普段と変わらないが、必死に怒りを隠しているのをウィルは感じ取る。
ウィルは「分かりました」と頷き、ジャックの後を着いて行った。
ジャックはオフィスに着くと、ドアに鍵を閉め、全てのブラインドを下ろした。
ウィルとジャックがテーブルを挟み、対面で来客用のソファに座る。
先に口を開いたのはジャックだ。
「ウィル。
朝一番にブルーム博士から連絡があった。
レクター博士のカウンセリングを受けることにしたのは本当か?」
ウィルが視線を落とし「ええ」とだけ答える。
「どうして相談してくれなかった?
あんなに嫌がっていたじゃないか」
「それは…迷っていて…。
自分がどう決断するか自信が持てなかったから…。
それであなたを振り回したく無かったんです」
「ウィル、俺を見ろ」
「…嫌です」
ジャックがフフッと笑う。
「嘘がバレるからか?」
「…違います」
ウィルの膝にポトッと涙が落ちて、ウィルが両手で顔を覆う。
ジャックがさっと立ち上がり、ウィルの隣に座る。
そうしてウィルを抱きしめる。
「ウィル…もしかして責任を感じてるのか?
自分がもっと早く捜査に加わっていれば、犯人を早期に逮捕出来たかもしれないと。
だけどお前は悪く無い。
お前は講師としてちゃんと勤めていたし、今回だって俺が強引に捜査にお前を引き込んだんだ。
あの殺人鬼を捕まえたかったのは俺だ。
そしてお前を利用した。
責めるなら俺を責めろ。
これ以上お前が嫌なことをする必要は無い」
ウィルがジャックの厚い胸板にぎゅっと顔を押し付ける。
「違う…。
泣いたりしてすみません。
でも違う。
また僕の力が必要になった時、直ぐに捜査に加われるように準備をしておきたいと思った。
それにはレクター博士のお墨付きが必要だから…。
ただ緊張してる。
それだけです」
「本当に?」
「ええ」
ジャックの大きな手がウィルの巻き毛をやさしく撫でて、頭の天辺にキスを落とす。
「カウンセリングは3時から60分で終わるんだろう?
帰りに迎えに行くから行きはタクシーで行け」
ウィルが「行動科学課の課長が自らお迎えに?」と言ってクスッと笑う。
「やっと笑ったな!
そうだ!
俺を顎で使うヤツだと評判になるぞ!」
ジャックが嬉しそうに言って、ウィルをぎゅうぎゅうと抱きしめる。
ウィルがクスクス笑う。
「ジャック…苦しい…」
ジャックが腕を緩め、「俺を見ろ」と言う。
ウィルがジャックの腕の中で、ジャックを見上げる。
「本当に大丈夫か?」
ジャックのやさしい問いに、ウィルは「迎え、待ってます」と答えてジャックの頬にキスをした。
午後3時丁度にレクター博士のセラピールームの扉が開く。
「やあ、ウィル。
どうぞ入って」
レクター博士は穏やかな笑みを浮かべて扉を抑えてくれている。
ウィルは無表情でスタスタとセラピールームに入った。
レクター博士のセラピールームは診療室兼オフィスだ。
ウィルが手前にある対面式のソファセットの前に立っていると、レクター博士が「さあ、座って」と言って、自分もソファに座った。
ウィルも仕方無くと思われないように自然にソファに座る。
レクター博士が微笑む。
「良く来る気になってくれたね。
ブルーム博士も喜んでいたよ」
ウィルは誰のせいだと思いながらも、無表情のまま「そうですか」とだけ言った。
早くカウンセリングを終わらせて、この卑劣な男と縁を切りたい。
「ウィル、君は誤解している」
レクター博士がやさしく語りかける。
「まず昨日話した十字架の件だが、パーティの後、君とジャックはホテルの同室に泊まったね?
実は私とアラーナもセミスイートの部屋に泊まったんだ。
あのホテルはコの字型に建っていて中庭があるだろう?
そこに珍しい鳥が来ると教えてくれた人がいた。
それで私は双眼鏡を持っていたんだ」
「それで僕らの部屋を覗いたって言うんですか?
不謹慎だ」
「話は最後まで聞いてくれ、ウィル。
こんなことを言うと子供じみていて恥ずかしいんだが、双眼鏡を買ったのなんて久しぶりで浮かれていたんだな…朝まで待てなくて月を眺めてみたくなった。
小型だが高性能の双眼鏡だから、どの位見られるか試したかったんだ。
そうしたら君達の部屋が見えた。
正確にはコの字型の反対側の窓のカーテンの隙間から漏れる光と人影が」
ウィルが「嘘だ!」とレクター博士の話を遮る。
「ジャックはそんなミスは犯さない。
僕達が行為をする時には、いつもきちんとカーテンを閉めている!」
レクター博士が駄々っ子をあやすような口調になる。
「君は何でもジャックに任せているんだね。
あのホテルはカーテンが自動で閉まるんだ。
隙間は10センチ程だったし、ジャックも気づかなかったんじゃないかな?
君の発熱の方が心配で。
だが10センチで十分だった。
ジャックが立ったまま君を抱き上げて揺さぶっているのが分かったからね。
君は真っ赤な顔で喘いでいた。
金色の十字架を煌めかせて」
ウィルが両手で拳を作り、膝の上でぎゅっと握る。
「それで翌朝君にカフェで会った時、君は頭が痛いと言って今にも倒れそうだった。
まず私は、もしかして君は、熱があってもジャックとセックスしているのかもしれないと思った。
そしてジャックは、君が熱を出していると知っていても『構わず』セックスをしているのかと思った。
君が現場に出るだけでも治療が必要なのに、私生活を悪化させる恋人がいては私が心配になるのも分かるだろう?」
ウィルの膝の上の握った拳は、力を入れ過ぎているせいで、指が白くなっている。
「だからって夜中に僕の家に来て、覗きをするのか…」
「今日、君に会う前に、君の様子が知りたかった。
昨日君が、犯人逮捕どころか刑務所に送られた犯人の証拠をまた検証しているとブルーム博士から連絡を貰って心配になったんだ。
だが私はこれでも忙しい身でね。
昨夜は遅くなってしまった。
それに君のスマホに何度も電話したが電源が切られていた。
だが君も大人の男性だ。
君の家に着いたのは9時半だったが、訪問には問題無いと判断した。
私は君の顔さえ見られれば良かったのだから。
そうしたら沢山の犬達が君の家から出て来て、私の車を取り囲んだ。
きっと君への手土産に勘付いたんだな」
ウィルの握り締めた手がピクリと動く。
「手土産?」
「そう。
今は保存のきく肉料理とだけ言っておく。
またプレゼントに用意したいからね。
私は料理も趣味なんだ。
口に入れる物には特に気を使っている。
話が逸れたね。
すまない。
それで犬達の期待に満ちた目と尻尾に降参して、君への手土産を犬達に振る舞っていた。
そうしたら君の家の灯りに照らされた影が大きく揺れて、微かに『音』が聞こえた。
私は君の家に泥棒でも入ったのかと思って、思わず車に乗せっぱなしだった双眼鏡を掴んだ。
驚いたよ。
ジャックがいた。
車は停めて無かったのに」
「…ジャックは僕を驚かせようと家の裏に車を停めたんです」
「そうか。
そしてジャックは裸の君の尻を叩いていた。
君は壁に手を付いて抵抗していなかった。
私は最初、何かの『制裁』を加えられているのかと思った。
君達がSM愛好者で無いことは一目で分かるからね。
だが君達はスパンキングをした後、セックスを始めた。
君は金色の十字架をしていて、君のペニスは紐で…」
「もう止めてくれ!」
ウィルが絶叫する。
「あなたには分からない!
僕を理解してくれるのはジャックだけだ!
ジャックは好きであんなことをしてるんじゃ無い!
僕を心配して…僕が悪夢に囚われないようにしてくれてるんだ!
早く僕のカウンセリングをすればいい!
自閉症スペクトラムの話を!」
「ウィル、手を開いて」
「…え?」
「血が出ている。
治療しよう」
ウィルはレクター博士にそう言われて、初めて痛みを感じた。
指の間から血が滲んでいるのが見える。
レクター博士がウィルの前にしゃがみ、ウィルの両手を包み、強張った指を一本、また一本と開いてゆく。
開いたウィルの両手は、握り締めていた指の辺りから全面に血が広がっていた。
真っ青になるウィルにレクター博士がやさしく言う。
「傷は浅い。
まず流水で洗い流してから消毒をしよう。
さあ立って」
ウィルが立ち上がろうとして、よろめく。
レクター博士がしっかりとウィルを抱き止めた。
言い争う声…
それで声を抑えようとしているつもりか…?
うるさい…
ゆらゆら…
気持ち良い…
もう少しこのままで…
「んー…」
ウィルが目を擦ると「ほら起きた」とレクター博士の冷静な声がした。
ウィルがガバッと椅子から起き上がろうとすると、「ゆっくり動くんだ。でなければまた倒れる」とレクター博士が厳しい声になる。
ウィルがぼんやりと声のする方を見ると、心配そうな顔をしたジャックと目が合った。
「ウィル!」
ジャックが飛ぶようにウィルの元にやって来る。
「大丈夫か?
手を怪我して倒れたと聞いて…。
やっぱりカウンセリングなんか受けさせるんじゃ無かった…」
「ジャック…」
ウィルが目を潤ませているジャックの頬に手を伸ばす。
両方の手の平には大きな絆創膏が貼られていた。
「僕なら大丈夫。
手を握りしめていて…加減が分からなくなっただけです…。
レクター博士」
「何かな?」
「もう帰っていいですか?」
「気分は?」
「少し変な感じですけど、これ位なら大丈夫」
「じゃあ血圧と脈拍を図って目を見せて。
正常の範囲内なら帰ってもらって構わない。
そういうことだからジャック、待合室で待っていてくれるね?」
ジャックがウィルの手をそっと掴み、ウィルの膝に置くとすっと立ち上がる。
「ええ。
騒いですみませんでした、博士。
ウィル、後でな」
ウィルが儚く微笑む。
「はい、後で」
その後、レクター博士はウィルの血圧と脈拍を図り、目を診た。
そして満足したように「もう大丈夫。『自分の血』を見たのが相当ショックだったんだね。だが『普通の人』はあの程度の血を見たからと言って、失神したりしない。今が何時か分かるかい?もう直ぐ5時だ。君は90分近く意識が無かった。私は次の患者をキャンセルしたよ。これで君にカウンセリングが必要なことが証明されたね」と言って薬袋を差し出した。
そして「その絆創膏は最新式だ。着けておく程に早く治る。替えに3日分出そう。それから軽い安定剤を一週間分。気分が悪くなったら飲んで。但し一日三度まで。それでも不安が消えなかったり、私が必要だと思ったらいつでも連絡してくれて良いよ」と言った。
ウィルはおずおずと「ありがとうございます」と言って薬袋を受け取った。
レクター博士にジャックとのセックスを見られた説明も理解出来る。
レクター博士が『親切な良い医師』なのも分かる。
だがウィルは圧倒的な違和感に押し潰されそうだった。
早くジャックに会って安心させて欲しい。
犬達と触れ合いたい。
ウィルの考えは『望み』を越えた『渇望』だった。
それ程の違和感にウィルは押し潰されそうなのに、『親切な良い医師』の筈のレクター博士は平然としている。
そしてレクター博士は、「次回は来週の火曜日の午後3時に」と言うと、微笑みながらセラピールームの扉を開けた。
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