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「準備にこれほど時間がかかるとは、昼食とやらはよほど豪勢なのだろうな、リュシアン」  夜になってようやく戻ってきた従者は、暗闇のなか灯りも点けず長椅子へ横たわる私を見ると、扉の前に立ち尽くした。 「テオ。もしかして、記憶が?」 「……テオ、か。主にむかってずいぶんと親しげに呼んでくれる」   途端に顔色を変え、手に持つ燭台を震わせる。 「申し訳ございませ――」 「いい。どうせ記憶を失う以前はそう呼んでいたんだろう」 「え……?」 「おまえが私を親しく呼ぶのを以前にも一度聞いたことがある。そこの寝台で目を覚ましたときだ。おまえは私の手を握って〝テオ、おかえりなさい〟と、そのときたしかに言った。……覚えていないのか?」  瞳を潤ませ、頬を上気させ、吐息が触れるほどの距離で。  横たわる私の顔を覗きこみ、男は言った。  おかえりなさい、と。 男の顔にはまるで精気が感じられなかった。  魂をどこかへ置いてきたような、死に瀕する傷を負った私よりも、よほど憔悴しきっているような顔。  あれは友が目覚めるのを心待ちにしている人間の姿ではない。  あれは――もしかするともう二度と目を覚まさない誰かの傍で、自身もともに朽ちていくのを待っている……その覚悟をした者の姿だった。 「記憶が戻ったわけじゃない……が、残された断片的な知識と現在自分が置かれている状況を組み合わせると、そのままでもいろいろとわかることがある」  私が失った記憶。そのほとんどがこの男、リュシアン・ヴァローに関わっている。  孤児から奴隷、そして父である前のクレール伯に拾われ従者となったというこの男が長年にわたって私に仕えていたのは間違いない。  性格、好み、扱い方――自分でも多少気難しい性質だという自覚がある私をこの男は実に巧みにあしらう。その彼に自分がひとかたならぬ信頼を寄せていたのも、記憶はなくとも本能でわかる。  だが。 「おまえは、わたしにとって単なる従者ではないんだろう」 「……旦那様。なにを」 「記憶を失ってなお、ここに残っている。おまえの存在が私の心に深く刻まれているのが」  私は胸に手を当てた。じんわりと温かいそこは、この男を前にして、先ほどよりたしかに速く、強く脈打っている。 「私を呼ぶ声。投げかけられる笑み。触れる指の優しさ――そのすべてに、残り香のように私の気を引こうとするいじらしさを感じる。そして……私はそんなおまえを好ましく思っている」  リュシアンははっとして顔を強ばらせる。 「私を誘っているんだろう、リュシアン? それとも、無意識か?」  ぐ、と白い眉間に皺が刻まれた。おのれの身体をおのれで抱くように、腕を組む。 「……無礼を承知で申し上げますが、そのようなことわたくしは存じません。すべて旦那様の――」 「勘違いだとでも? ではなぜ我々はここに……〝花の館〟に暮らしている?」  花の館。その名を知ったのはまだ私が幼い頃だ。  不治の病に冒され余命幾ばくもない母の枕元で、父が呟くように言うのを聞いた。  母の魂をあの館に閉じ込め、自分もそこで死にたいのだと。  長じてのち、その館が実際に存在すること、それが王宮の隅にひっそりと建てられているということを知った。 「花の館は、愛の館。ひとりの男が最愛の人を隠し、囲い、護るために建てたさせた秘密の巣。そこに時は流れず、心ない人々の声も届かず、美しい花と愛する者の囁き声だけが満ちる」  しかし、館の存在を知る者は限られる。  王宮に棲まう者。そこに深い関わりをもつ者。  そして、館を建てた王の血を引く者たち。 「私の記憶のないあいだに、陛下の知遇を得たらしいな。この館に棲まう権利を得たのは、特別のご厚情を賜った結果か」 「あ……」 「つまり、二百年続いてきたクレールの〝呪い〟は私の代で見事に消え去ったというわけだ。馬から落ちる原因となったという〝弟〟とやらも、おおかた『出生に際して継嗣(けいし)と定められた者以外、何人も爵位を受け継ぐことはできない』というあの忌まわしい制約が解かれた結果、父上が外にでも作った子どもを私が後継として迎え入れたのだろう。すべてはここで……リュシアン、おまえと生きるために」  リュシアンの顔は青ざめている。榛色の瞳に浮かぶのは、愛する者に自分の存在を認められたという安堵の色などではない。 「……不安か? 私が導き出した答えが、すべてを思い出した結果ではないということが」  私は震える細腕に手を伸ばした。 「恐れることはない。すべてを思い出したわけじゃないが、私にはたしかにおまえを手に入れたいと思う気持ちがある。それに、どうせいつか私は私に戻る。それまでほんの火遊びのつもりで、これまでとはすこしちがう情事を愉しむといい」  シャツの襟の、空いた隙間に手を差し入れた。  リュシアンがビクリと身体を震わせる。 「坊ちゃ――、旦那様、なにを!」 「なにを、だと? 愛し合うふたりが寄り添えば、することはひとつだろう」 「そんな……」 「初めて会ったときから思っていたが、おまえは少し痩せすぎだ。私はもう心配いらないのだから、たくさん食べてゆっくり休むといい。そういえばもうすぐ夕食の時間か。おまえのぶんもここへ運ばせて、あとで一緒に取るとしよう」 「待って。待って、くださ――」 「人払いはしておいた。声ならいくら上げてもかまわない」 「そういうことでは」  ぐい、と弱々しい手のひらが、彼を寝台に押し倒した私の胸を押し返す。 「なんだ」  この男に時折感じていた苛立ちはおそらく、自覚のない欲情によるものだったのだろう。  しかしそれとはまた別の、拒絶されたことに対する腹立たしさが私を襲った。 「気が乗らないか」  彼も人間だ、体調の善し悪しはあるだろう。陛下に与えられた仕事とやらがどのようなものだったかは知らないが、疲れているというのなら考慮してやらなくもない。  不承不承そう告げると、まだなのです、と囁くような声が返ってくる。 「申し上げにくいのですが、実は旦那様とわたくしは……まだ」  ――まだ? 「私がおまえになにもしていないと?」  きまりの悪そうな顔でリュシアンが頷く。 「わたくしは、その……このとおり男の身体、ですので」 「そんなこと」  ――気にする必要があるのか?  それに、そもそも私は――。 「……まあいい。時間はいくらでもある」  この男の心が私にあることは確かめられた。  今日のところはそれで満足してやると言うと、リュシアンはどこかほっとしたような表情を浮かべる。 「ただし、おまえの覚悟が決まりしだい、すぐにでも抱く。そのつもりでいろ」 「はい」  弾かれるように離れる熱が無性に憎らしくなって、私は素早くリュシアンの唇を奪った。  驚いて退こうとするのを力づくで引き寄せる。 「まさか口づけまで拒むというんじゃないだろうな」  結局その日は食事も取らず、部屋へ戻ろうとするリュシアンを何度も引き留めては、彼の甘い唇を私は飽きもせず貪った。

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