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崩壊──08.

   壁が薄ければ、物音を聞きつけた誰かが助けにきてくれていたのだろうか。ここは住む住人たちの仕事事情等をおもんばかってか隣合う部屋の壁が厚い。  何が起きても誰も気づかないし、誰も来ない。干渉しない、それが暗黙のルールだから。 「言ったろ、新しい玩具に飽きたって」  ソンリェンが、ギシリとトイを囲うように圧し掛かってきた。後ずさることもできずにぎゅっとシーツを握りしめる。金色の少しだけ長い髪がぱさりと頬にかかった。  真っすぐにトイを見下ろす青色の目を、初めてみた時は綺麗だと思った。まるで空高い青空のようだと。  けれども彼は包み込んでくれる空とは程遠い、闇から生まれた悪魔のような人だった。 「……暇なんだよ」  そんな理由で、トイを探し居場所を突き止めたということが信じられない。  生きているかもわからない相手にこの男が時間を割くだろうか。もちろん動いたのはソンリェンではなく使用人辺りだろうが、命令したのはきっとソンリェンだろう。  どんな理由にせよ、彼がトイを探し出したのは事実だ。だから彼は今ここにいる。それに心のどこかでは納得もしていた。なにせ遊びたいからという理由で年端もゆかぬ子どもを攫い、弄び飽きたからという理由で壊して捨てるような連中だ。かつて捨てた玩具でまだ遊びたりないなと思い直し手を出してくることだってありうるかもしれないのだ。  実際トイに飽きていないとソンリェンは言った。トイのどこがよかったのかはわからないが、ソンリェンなりにトイの体でまだ遊べる部分があると感じたのだろう。 「ここから逃げようだなんて馬鹿な真似考えるなよ」  そんなこと、できるわけないのに。 「逃げたら殺す」 「ぁ゛っ……!」  ソンリェンがまだ長く、吸いかけの煙草を剥き出しの鎖骨に押し付けて来た。  じゅっと焼けるような音と共に焦げた臭いが鼻腔に充満し、鋭い激痛が走ってシーツの上でのたうつ。 「ぅあっ……、ぅ」  押し付けられた煙草は直ぐに離れたが、あまりの痛みに火傷した箇所を両手で押さえこみ痛みに耐えた。  ソンリェンは機嫌が悪い時はこうやってトイの体のどこかに煙草の痕を残す男だった。ソンリェンの煙草よりも別の飼い主に蝋を垂らされた時の方が熱くて苦しかったが、1年ぶりの熱はトイの意思を砕くのには十分だった。 「徹底的に壊して、生きてることすら後悔させてやる」 「……、う」 「返事は」  短い命令に、出せない声の代わりに涙目で頷く。ソンリェンの目がすっと細められ、首を押さえていた腕を無理矢理引き剥がされ強く顔を近づけられた。 「お前は俺から、逃げられねえんだよ」  至近距離で視線がかち合った。ソンリェンの瞳に映る自分の顔に、トイはとても怯えた。  トイが閉じ込められていた部屋には洗面台があった。時折鏡に映った自分をぼうっと眺めていたが、その時と同じ顔をしていたのだ。絶望に満ち溢れた顔だ。  ここはあの屋敷じゃないのに、また彼に囚われる。  悲しくてくしゃりと顔を歪ませたトイを、ソンリェンはつまらなさそうに一瞥し立ち上がった。  ベッドの重みが消えた。先ほどの激しい情交が嘘みたいに、何事もなく部屋を後にするソンリェンの背を見上げることしかできない。 「おい」  ソンリェンが、火の消えた煙草を床に捨て、足で踏み潰した。 「明日までに灰皿買っておけよ」  かつかつと、こんな薄汚れた部屋には似つかわしくない高そうな革靴をふみ鳴らしながら、ソンリェンが扉の外へ消えていく。 「あと、直ぐ突っ込めるように準備しておけ」  ばたんと、家が崩れてしまいそうなほど乱暴に閉められた扉が、嫌な音を立てて軋んだ。  忘れたくとも忘れられない、心の奥底に閉じ込めていた忌まわしい記憶がソンリェンという存在によってどんどんと開かれていく。 『へえ、貴方トイって名前なんですねえ。驚きましたよ』  金色の目をした、艶のある長い髪を束ねた青年はゆったりとした口調で優し気に微笑んだ。 『え、なんで驚いてんの? そりゃあんまし聞かない名前だけどさあ』  茶色い目の、ふわりと猫のように柔らかな髪をした青年は、ねえねえと幼さの残る仕草で首を傾げた。 『お前はちゃんと勉強しろっての。トイっつーのは洋語でオモチャ、っつー意味なんだよ』  黒い目を持ち、刈り上げた短髪の青年は、咥えた煙草から白い煙を燻らせながら頬を釣り上げた。  3人がかりで、トイの身体を四方から押さえつけながら。 『へえ、オモチャっつー意味なんだ? うわすっごい、まんまじゃん』 『面白い偶然ですよねえ、まるで私たちのオモチャになるために生まれて来たようなものじゃないですか』 『違いねえな。いい拾いもんかもな。で、誰が一番よ』 『あっはいはーい! 俺一番手がいい!』 『ここはじゃんけんだろ』 『えー! 年下に譲ってよ』  明るく、楽しそうに会話を弾ませながら、裸に剥いたトイの身体を弄り始める。 『お前らまだやってんのかよ』  透き通った空を埋め込んだような、そんな瞳を持ったソンリェンがトイを見下す。 『黙れバカ共、いちいち玩具の名前なんか覚えてられっか』  手入れの行き届いたソンリェンの金色の髪が、さらさらと揺れる。 『散々出しやがっててめえら……きったねえな』  トイの脚を容赦なく割り開いたソンリェンが、不機嫌も露わにちっと舌打ちをする。 『おい、てめえこっちの足押さえとけ』  ソンリェンが、怯えるトイを一瞥すらせず容赦なく腰を推し進めてくる。 『触んな、汚ねえ』  トイの手を振り払ったソンリェンが、嫌悪も露わに見下ろしてくる。  ──ぎゅっと、強く目を瞑る。  溢れてくるおぞましい記憶から少しでもいいから逃れたかった。  これからどうなるのだろう。また好きなように犯され尽くして、壊されてしまうのだろうか。  明日から始まるであろう地獄の日々を想像して、トイは体を丸め声を押し殺して泣いた。

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