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勇敢な子豚──14.

  ちょうど、夜中に外に探検に出ていた子豚が、怪しい馬車から出て来た闇の住人たちに捕らえられ豪華な館に連れていかれてしまうというシーンだった。  もう何度も他の子どもたちにも読み聞かせていたのでこのあとの展開はわかる。丸まると太った子豚が闇の王様の夕飯として差し出されてしまいそうになる、緊迫したシーンだ。  トイは、汗ばんだ指先でページを捲った。子どもたちが身を乗り出して、機転を利かせて闇の王様を退治した子豚にかっこいい! と目を輝かせている。  勇敢な子豚は、黒い檻にとらわれてもそこから逃げ出そうと全力で足掻き、自分の力で自由を手にした。  最後はお腹が空いていたんだと泣いた闇の王様にも優しさをみせ、家へ招いてみんなで一緒に温かいスープを飲んだ。闇の王様と子豚は友人になって、この物語は幕を下ろした。  ふと窓の外を見る、もう日が暮れそうだった。  そろそろ夕食の支度をする時間なので、遊びまわる子どもたちに声をかけ手を洗わせる。  その間トイは散らばった玩具を片付けていた。ふと影が差して顔を上げる。シスターがいた。 「ありがとうね、足痺れたでしょう」 「全然、だいじょうぶだって」 「トイに絵本を読んでもらうのあの子たち大好きなのよね。私の時はね、あんまり盛り上がってくれないのよ。演技力が足りないのかしら……トイを見習わなきゃ」 「なにそれ」  うーんと首をひねるシスターに笑う。 「シスター、あのさ」 「なに?」 「ごめん、今日もちょっと、夕飯一緒に食べられそうにないんだ」 「え?」  昨日家に帰った時には既にソンリェンはトイの帰りをあの扉の前で待っていた。だからその前には部屋に戻っていなければいけない。待たせてしまえばきっと酷く怒られる。  それに、今日は帰りに灰皿を買って帰らないといけないのだ。 「……どうしたの、体調悪いの?」  シスターの瞳がさっと曇った。  トイがシスターに拾われた時、トイは酷い有様だったらしい。トイが目覚めたのは助けられてから3日後だった。  真新しい傷跡の他に、トイの体に蓄積された痣や傷跡でトイが今まで何をされてきたのかをシスターは深く理解したようだ。  当たり前だ、今でも子どもたちと風呂に入ることさえ戸惑うほどの身体だ。  トイはスラムで身体を売っていたと説明した。そこで手ひどくやられて死にかけた、と。  金持ちの男たちに誘拐されて慰みものにされていただなんて言えなかった。シスターに真実がバレればきっと優しい彼女を傷つけることになる。それに、彼女にだけは玩具だった事実を知られたくなかった。  しかし、トイのそんな身勝手な判断のせいでソンリェンに居場所を突き止められ、ここの子どもたちを危険に晒している。  特にソンリェンは中央教会と密接した繋がりを持つ貿易商の跡取りらしい。力を持つ教会に対して金銭的な支援も行っている。  どのぐらいのお金が回っているのかトイは知らない。けれども、彼の家が小さな、本当に小さなこの育児院一つを潰すくらい造作もなくやってのけるのだろうということはわかっていた。 「シスター……」  ここにいるだけできっと迷惑がかかる。今直ぐにでも育児院から行方をくらませ、誰ともかかわらず生きていったほうがいい。  それはわかっているのに言葉が出てこない。初めてできた居場所はこんなにも温かくて、今のトイの生きがいでもあった。 「トイ?」  押し黙ったトイに、シスターが手を伸ばしてきた。  ぱしりと、思わず拒んでしまった自分の手首を茫然と見つめる。シスターが一瞬だけ驚いて、痛ましそうに瞳を歪めた。 「あ……シ、シスター」 「トイ」 「ご、め……ごめん、オレ……オレ」  最初は、他者と接触することがなかなか出来なかった。身体をまさぐってくる大きな手を思い出してどうしても身が竦んでしまったのだ。  けれども一か月、二か月とシスターや子どもたちと接していくうちにだんだんと平気になって、今では自ら子どもたちに抱き着くこともできるようになっていた。  だからこの温かい手に怯えるなんてもうあり得なかったのに。 「大丈夫、大丈夫よ。ごめんなさい、こっちこそ驚かせてしまったわね」  落ち着いて、と初めて会った頃のようにそっと肩に手を添えられ、かがんだシスターにとんとん、と肩を叩かれて暗がりに引きずり込まれそうになっていた思考を引き戻される。シスターの温かな表情に息が吸えた。 「あ、いや、ごめん……触れられるのがダメってことじゃなくて、その」  ふと、シスターが、眉を潜めてトイの襟首を見ていることに気が付いた。  かがんだことで僅かに隙間が見えたのだろう。首につけられた煙草の痕を思い出してトイは慌てて襟を隠したがもう遅かったようだ。  言葉を濁しながら傍に落ちていた人形を手に取る。人形の片腕がほつれて少しだけ取れかけていた。 「あの、実は、朝に火傷、しちゃって」 「そう……みたいね」 「お湯わかしてたんだけど、零しちゃってさ……ちょっと首に」 「首って……大丈夫なの!?」  慌ててトイの襟を捲ってこようとするシスターを、トイの方も慌てて制する。 「たいしたことないって、でもちょっと、まだ痛みが、あって」 「当たり前よ、こんなことはいいから直ぐに帰って休まなきゃ。薬は? どうして言わないの」  慌てたシスターの顔はとても強張っていた。トイが手に持っていた人形をやんわりと取られ痛みが響かぬようにそっと椅子に座らされる。ぱたぱたと別部屋へと向かったシスターの背中にため息をついた。  薬を持ってきてくれるに違いない、だから煙草の痕を見せたくなかったのだ。  シスターは子どもたちやトイのためには惜しみなくお金を使ってしまうから。 「病院は」  直ぐに戻って来たシスターに笑ってみせる。 「そこまでの火傷じゃないからだいじょーぶ、ほら見てよ、平気だから!」  なんてことないように肩をぐるぐる回してみせるがシスターの表情は晴れない。はあ、と心配げにため息を吐かれる。 「痛かったでしょうに……明日はお休みでも構わないわ」 「いやほんと大丈夫だって! ただのちょっとした火傷だし、痛みだってそんなに」 「だめよ……ほら」  手渡された袋の中には、やはり予想通り塗り薬が入っていた。しかも2缶も。 「あの、もしも辛かったらちゃんと言うから」 「……そうして頂戴、明日来られなかったらそれでいいから無理だけはしないで。数日たっても治らないようでしたらお医者様を呼んで育児院に隔離しちゃうわよ」  トイが育児院へは泊まらず必ず自分の住処へ戻りたがることを、シスターは深くは追及せずきちんと受けいれてくれていた。  育児院で生活するみんなは、トイと同じように親がいない子がほとんどだ。けれども昔からここで過ごし互いが家族のようなものだった。  家族がおらず一人で小汚いスラムで生きてきたトイにとって、そんな世界というのはとても眩しいものだ。  トイのような忌まわしい過去を持つ、出自すらもわからぬ人間のせいでその生活が脅かされることはあってはならない。だから彼らと一緒に暮らすというのは気が引けた。  そしてシスターはそんなトイの心境をわかった上でこうして気に留めてくれる。それがいつも有難かった。  子どもたちに会うと大変だろうし、と腕を引かれて裏口から帰るよう促される。  いつも、トイが帰る時は引き留めようと躍起になる子どもたちがいることは確かだ。そうなると帰るまで時間がかかってしまうので、それに甘えてこっそりと廊下を歩き裏庭から外に出た。  がさりと貰った紙袋を強く抱きしめる。シスターに拾われた際にも、トイの身体を治療するために無い金を絞って医者を呼び、高価な薬を購入してくれた。トイの男性でもあり女性でもあるおかしな身体を見ても、気味悪げな顔一つせずにトイに接してくれている。  返せるお金なんてないし、少しでもシスターに恩返しがしたくてここで働かせてほしいと願ったのだが、結局お給金も貰っている。  何もかも助けて貰ってばかりだ。子どもたちと遊ぶことしかトイには能がないのに。 「あの、シスター」 「なに?」  もうここには来られない。  本来ならばそう言わなければいけないのに、やはりみんなの傍にいたいと自己中心的な感情が湧きあがってしまう。シスターや子どもたちと離れたくなかった。 「ありがと、ごめんな」  結局、口に出来たのはそんな台詞だった。きょとん、と小首を傾げたシスターは少しだけ笑って、ゆっくり休んでと頭を撫でてくれた。  トイの姿が角を曲がり見えなくなるまで、シスターは裏庭から手を振ってくれた。

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