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お出かけ──23.
「おい」
「あっ……う、うん」
「終わったか」
「う、ん」
外に出てからソンリェンに話しかけられたのもこれが初めてだった。立ち止まり固まってしまっていた首を動かしソンリェンの胸あたりを見る。隣に立つソンリェンの視線が痛すぎた。
「あとはもう……帰る、から」
ソンリェンは何も言わない。強張った顔で彼を仰ぎ見れば、空と同じ色をした瞳とかち合った。鋭く光ったように見えたのは逆光のせいだろうか。
「いつもと、ルートがちげえな」
ぎくりとする。いや違う、トイがソンリェンの機嫌を損ねたのだ。
「行く所、別にあるんじゃねえのか?」
なあ、と不機嫌も露わにソンリェンが嗤った。今日は育児院へは行かないのだろうと見透かされた時と同じ緊張感に包まれる。彼がどこまでトイの生活行動を把握しているのかがわからなかったが、ここまでくれば流石に理解した──きっと、全てだ。
トイのことで知らないことは無い。ソンリェンはそう言っていた。
今トイは、買い物に出た際に必ず向かう場所に連れていけと、命じられているのだ。
直ぐには頷けなかった。あそこは、トイの一番好きな場所だ。
トイはもともと外に出ることが好きだし、見知らぬ場所を散歩することも好きだ。人の少ない場所で思い切り走り回るのも、綺麗な花を眺めるのも好きだ。食べられる草花を見つけるのも、鳥の囀りをじっくりと聴ける穏やかな時間を過ごすのも好きだ。透明な水面が風に揺れる光景を、日が暮れるまで眺めているのも好きだ。
それらのトイの好きを、沢山詰め込んだ秘密の場所がある。
誰にも教えたことのない、これからも教えるつもりもなかった場所だ。
どうせトイと接触する前にトイがどこで何をしているのかも調べているのだろう。わかっているのならば放っておいてほしい。
育児院とあの寂れた部屋、それ以外のトイの大切な場所すらもソンリェンに踏み荒らされればトイには何もなくなってしまう。
しかし、ここで抵抗すればソンリェンなりの「躾」が待っているのだろう。特に今日は一度ソンリェンには偽りを述べている。二度目はきっと許されない。
ソンリェンが押し黙ったトイの前で煙草を落としぐしゃりと足で踏み潰したのも、きっとトイに身の程を弁えさせるためだ。わかっていた。
「もう、嘘つくんじゃねえぞ」
断る術など最初からない。玩具ごときが歯向かうなという嘲りが、地面の上で潰れた煙草から聞こえてきた。
****
そこは、トイたちがいた所からそこまで離れた場所ではなかった。
というのも、トイの秘密の場所は屋台立ち並ぶ市街から離れた、雑木林の奥深くにあるからだ。
誰も訪れない秘境の地、とまではいかないだろうが、市街の中心にはもっと綺麗に整備された森林公園があるから、ここを訪れる人はほぼいない。
道も泥だらけで舗装などされていないため危ないし、草木が生い茂り辿りつくまでかなり苦労する。
トイだからこそ見つけられた場所なのであって、他の人達は場所すらもわからないだろう。
現にソンリェンも苦労している様子だった。
だが自らが催促した手前辿り着く前に帰るとは言えないのか、「道じゃねえだろ」「ふざけんな」といつもの悪態をつきながら歩きにくそうに綺麗な靴とズボンを汚していた。
ソンリェンは貿易商を営む家柄の息子だ。こんな茨のような道、歩いたこともないに違いない。
澄ました顔に珍しく汗が滲んでいる様子を内心で笑ってしまい、そんなことを考えてしまった自分が酷く醜く思えてトイは歩くスピードを緩めた。ソンリェンが追い付いてこられるように。
どうせここでソンリェンを置き去りにしたとしても、あとで殴られ徹底的に痛めつけられるのがオチだ。
ふと、木々が開けた。
空が明るくなり、水の音が強くなる。一週間ぶりの自然の気配なのに、いつものように心が躍らないことが寂しい。まさかソンリェンをここに連れて来ることになるとは思ってもいなかった。
「……ここが、お前のお気に入りの場所ってか」
盛大に呆れた様子のソンリェンが、トイの前に出た。
視界に広がるのは大きな湖、とまでは言えない水の溜まり場だった。深さだってそこまでではないだろう。反対側にある大きな湖から派生した、土の窪みに溜まった広い水辺だ。
晴れ渡る空からそよそよとした風が吹き、水面を静かに揺らしている。鳥の囀りと、時折小さな魚が跳ねるぐらいの静かな場所だった。
「何がいいんだか。こんな廃れた泥まみれな水辺」
ここは舗装されていない分酷く湿ってもいる。腐った葉なども散らばっていてお世辞にも綺麗な場所だとは言えないだろう。だがトイは育児院に行かない日は、必ずと言っていいほどここに来て自然が造った石の椅子に座り込み、日がな景色を眺めていた。
トイには、友達と呼べる存在がいない。育児院には小さな子どもたちが多く年の近い子はいないのだ。もちろんシスターも年上だ。
ここは静かで、誰もいなくて、暖かい。
寂しさを紛らわすためでもあったがこの場所に来ると不思議と心が落ち着いた。自然の力は圧倒的だ。どんなに強い人間だって自然の猛威には敵いやしない。
トイはちっぽけな存在だが、トイを蔑む男たちだって広い空や大地や水、自然から見れば大した存在じゃない。トイに比べればソンリェンは権力や財力を持ち世の中から必要とされている存在かもしれないが、ここにくれば全ての人間が平等で、ちっぽけなのだ。その事実をいつも実感できる。
だからトイはこの空間が好きだった。自然と同化し、トイが人間として在れる場所だった。
「こんな場所しか行く当てもねえのかてめえは。寂しい奴だな」
むしろ、寂しいトイはここに来ると寂しくなくなる。ソンリェンには一生理解できない感覚だろう。
「ソンリェンにはわかんねえよな」
「……あ?」
地を這うような低い声に、はっと思考が引き戻された。ソンリェンを纏う気温が一気に下がった。ソンリェンの前で思ったことを口に出してしまうことほど、後が大変なものはない。
案の定、トイの反抗らしい反抗にソンリェンは大層苛ついたようだった。
「てめえ」
「ご、ごめん……」
誰にものを言っているんだと怒りをぶつけられる前に震える声で謝罪し、視線を逸らしてソンリェンから離れる。
狭い場所だ、どこへ行こうとも彼から身を隠すことなどできないが、縮こまるように岩の陰にしゃがみ込んだ。
ソンリェンは舌打ちしただけで追いかけては来なかった。ほっと胸を撫でおろして、綺麗な水面を見つめる。
座り込んだ拍子に、手にしていた袋から林檎が1個、ぬかるんだ泥の上に落ちてしまった。汚れてしまった赤い果実を拾い、透明度の高い水の中にぽしゃりと入れて泥を落とす。
血色の悪い自分の顔が水面に反射して、林檎から剥がれた泥に覆われた。灰色になった世界が直ぐに透明度のある綺麗な水に戻っても、トイの瞳の奥にへばり付いている汚泥は消えないのだろう。
ぼんやりとしていると、また林檎が転がり落ちてしまった。ぽとんと水の中へと。慌てて掴み取ろうとしたが取り損ねてしまい、林檎は暗い底の方へと沈んでいってしまった。
残ったのは手のひらの上でぷかりと揺れる林檎だけ。甘い果実の赤が、今朝吐き出したトマトと重なって見えた。
──なんでいつも、こうなるのかな。
くしゃりと、水面のトイの顔が歪んだ。
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