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お出かけ──24.

 トイの日常が暗闇に侵食されていく。1年かけて手に入れた平穏が、たったの数日で崩された。何度忘れようと思っても、いつまで経ってもおぞましい過去はトイの中から消えてくれない。  この林檎のように綺麗に汚れが落ちてくれればいいものを、どんなに身体を掻きむしっても掻きだしても、トイの身体のあちこちに染み付いた青臭さは消えない。いつだって臭う。  夜中に思い出したくもない記憶を闇に引きずり出されて、汗だくになって飛び起きるのはもうたくさんだ。  ──なんでトイは、いつまでたってもこうなんだろう。 「おい」  押し付けられた煙草の痕も、殴られて切れた唇の端も、貫かれて傷つけられた下半身も、鞭打たれた背中も。全ての傷痕が、蚯蚓腫れのようにトイの身体のあちこちに残っている。  いっそのこと痕の残る皮膚を全て削り取ってしまいたかった。新たに血を流すことになっても構わない。それで目に見える過去が消えてくれるのなら。  そうすれば少しは、トイの中にじくじくと残り続ける膿も、痛みも、ましになるんじゃないだろうか。  だんだんと自分の顔が近づいてくる。睫毛に、瞳に、耳に、じんわりと水が染み込んでくる。冷たくて気持ちがいい。なんだか楽になれそうな気がした。 「……おい」  このまま水と同化してしまえば、痛いのも悲しいのも苦しいのも、全て流れてくれるかもしれない。黒ずんだこの身体が透明になるかもしれない。穢れの無い身体へと生まれ変われるかもしれない。  そうしたらトイは今度こそ、玩具じゃなくて人間になれるんじゃないだろうか。 「──おい!」 「……ッ」  凄い力で首根っこを引っ張られてごろごろと後ろに転がる。透明な水の中から木漏れ日が差し込む世界へと視界が移動した。  何が起こったのかわからず茫然と地面に座り込んでいれば、悪魔のような形相をしたソンリェンに強く組み敷かれた。ぱちりと一つ瞬きをする。 「てめえなにしようとしてんだ!」 「──え」  怒鳴りつけられたが意味がわからず呆けていると、振り被られたソンリェンの手に頬を叩かれた。ばしんと、強い力で。  その拍子に横を向く。辺り一面にリンゴや他の食材が散らかっていた。地面に叩きつけられた時に袋の中から落ちてしまったようだ。気がつかなかった。 「なに死のうとしてんだてめえ! 俺から逃げようとしたら殺す! そう言っただろうが!」  ぐいと襟首を乱暴に掴まれ、よくわからぬまま揺さぶられる。なぜソンリェンはこんなにも怒っているのだろうか。はたともう一度瞬きをする。  ソンリェンの言い放った単語がぐるぐると頭の中を回る。  逃げる、誰が。死ぬ、誰が──トイが? 「死、ぬ?」 「つもりだったんだろうが」 「そ……んな、つもりない」 「水に頭突っ込んでおいてよくそんなことが言えるな、てめえ」  怒りのためか頬を高揚させたソンリェンに、唾ごと吐き捨てられる。水に頭を突っ込むなんて愚かな真似を、トイはしていたのだろうか。  茫然と指で顔を拭ってみれば、確かに濡れていた。そして確認してみれば前髪も耳も首も、肩もだ。つまり上半身がびしょ濡れだった。  もしかしてトイは、ソンリェンの言う通りのことをしていたのだろうか。記憶がなかった。ただ自分の穢れた身体を綺麗にしたいなと強く願っていただけで。  別に死のうとしたわけでも、逃げようとしていたわけでもないのに。 「育児院のガキ共はどうでもいいってか……はっ、じゃあさっさと行動に移してやってもいいんだぞ」  ふと、顔の水滴を拭っていた小指と、親指が目に入った。右手のこの二つの爪だけ他の爪と比べて少し変形している。一度、生爪を剥がされたことがあるからだ。  まだ抵抗心に満ち溢れていた頃、脱走しようとして失敗し、懲罰室という名の拷問部屋に押し込められた。実際剥がしたのはロイズとエミーだった。レオとソンリェンもその場にいた。爪を剥がされていく激痛に悲鳴を上げるトイを、残りの二人はテーブルの椅子に座りただ眺めていた。 「起きろバカが、戻るぞ。てめえの命は誰のもんなのかもう一度身体にわからせてやる」  レオはひでえことすんなあと肩を竦めつつ、唇の端を釣り上げて酒を飲んでいた気がする。ソンリェンは確か──どうだったか、くだらなさそうに煙草を吸っていた気がする。  小指の爪をロイズに剥がされ、確かエミーが次はどの指にしようかと二人に指示を仰いだ。ソンリェンが、吐いた煙が右に揺れたから右手だと言い、右手になった。レオが飲んでいた酒の水滴が親指に落ちたものだから親指だと言い、親指になった。 「死ぬわけ、ねえじゃん」  半ば呆然と呟く。頭を殴られた気分だった。 「そんなのするわけ、ねえじゃん」  人はどこまでも残酷になれる。目の前にいるソンリェンという男もどれほど残虐なことができる人間か知っている。背中にある鞭打たれた痕は、ほとんどソンリェンに付けられたものだ。彼を怒らせた。皮がめくれて、許してと泣き叫んでもソンリェンは止めてくれなかった。 「あんなことあの子たちに、させられるかよ」  あれほどまでにおぞましく途方もない苦痛を、トイを慕ってくれるあの優しい子どもたちに経験させたいわけがない。トイが自死を選ぶというのはそういうことだ。耐えられるはずがない。  選んでしまったら、今度はトイが人でなしになってしまう。 「逃げるわけ、ないじゃんかぁ……!!」  堰を切ったように涙がぼたぼたと溢れてくる。ソンリェンの目が見開かれた。

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