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お出かけ──25.

 忘れてなどいない、蔑むような眼差しを。恐ろしい記憶の数々を。死すら望んでしまうような絶望を。  それらをトイに与えたのは他でもないソンリェンたちだ。それなのにどうして当事者であるソンリェンが、死ぬなだなんて身勝手なことを言ってくるのか。  幼子のように喉を震わせ、盛大な嗚咽を零し始めたトイにソンリェンは多少言葉に詰まったらしい。彼の厚い唇がぎゅっと閉じられ、また開かれ、最後は舌打ちした。  乱雑な動作で顎を掴まれた。ソンリェンの傾いた顔が近づいてきて、熱い呼吸が唇に降りかかった。3日前と同じ角度だった。 「──ん……ッ」  深く唇を重ねられる。いや、押し付けられた言った方が正しいだろうか。反射的にぎゅっと引き結んでしまった唇を、舌と歯で割り割かれる。 「ゃ、う……はなっ、ふ」  首を振れば、抵抗は許さないとばかりに片手を地面に縫い付けられる。  侵入してきたねっとりとした舌に舌を絡めとられる。じんわりとした苦みが口の中に染み込んできて顔が歪んだ。きっとソンリェンの煙草の苦みだろう。溢れるトイの唾液の一滴すらも逃さないとでもいうように、口内を蹂躙してくる動きは執拗だった。 「はぁ、む、んっ……」  触れてきた唇は乾いていたが、トイの濡れた唇に直ぐに馴染んだ。隙間なく密着され、あまりの息苦しさに顔をずらしたが顎を固定されさらに深く貪られる。舌の裏、歯茎、内頬、上顎。か細い吐息すらも食らいつくすように舌で口内をむしゃぶり尽くされる。  ソンリェンにキスをされたことはないわけではなかったが、それは男たち全員の相手をさせられている時に次々に重ねられるものだったり、常に嗜虐心に満ち溢れていた。いたぶるための手段であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。  特に二人きりの時にキスをされるなんてことありえなかった。  けれども今は違う。いたぶるわけでもなく、性欲を刺激するためでもない。渇いた砂漠で見つけた一滴の水を必死に求められるような、飢えた獣に骨の髄までむしゃぶりつくされるような、そんなキスを与えられている。  トイは今朝ソンリェンの目の前で吐いているというのに、汚いとは思わないのだろうか。 『別にいい』  あの台詞の真意を、トイは未だに掴めないでいた。 「そ、そんりぇ……っんん」  混じった二人分の唾液が口の端から零れていく。それが頬を張られた時に切れてしまった口の端にびりっと染みて、トイは小さく悲鳴を上げた。 「ん、いっ、痛……」  ふいに唇が離れた。おそるおそる瞑っていた片目を開くと、顎を拘束していた指がそろりとトイの口の端の傷に触れてきた。柔らかな接触なので痛みはない。ゆっくりと、丁寧になぞられて違和感が募る。 「ふ……」  唇をずらしたソンリェンに今度は傷の上に口づけられる。そこから唇を端から端まで覆うように柔らかく食まれ、吸い付くような軽いキスを何度か繰り返された。 「ふ、んぅ……ふぁ」  長い時間をかけて、ゆっくりと唇が離れていく。少ない酸素の中、ソンリェンの唇に伸びた透明な糸が途切れたのをぼうっと眺める。  手首を解放されたが力が入らなかった。地面に引き倒されたトイは泥塗れだし、ソンリェンの手も土がついている。首筋にソンリェンの頭が圧し掛かってきた。 「聞け」  全体重を掛けられているのか、ソンリェンの体が重くて潰されてしまいそうだ。 「俺の許可なく自殺なんぞするな」  なんて傲慢な台詞だろうか。ソンリェンさえトイの前に現れなければトイは平和に生きていけるはずだったのに。なのにどうしてトイが諫められなければならないのか。 「次はねえぞ」  耳たぶをやわく噛まれ掠れた声で囁かれる。 「あんなまね、するな、二度と」  一言一言、まるで言い聞かせるような台詞だった。普段のソンリェンとはあまりにもかけ離れた声色に困惑する。睦言のようにも聞こえた。 「わかったな、トイ。お前は俺のもンだ」  言いたいことは山ほどあった。けれども嗚咽が止まらないせいでどれも言葉にはならなかった。 「……くそ」  ソンリェンの悪態はいつになく勢いがなかった。どれほどそうしていただろうか。トイの涙がやっと止まった頃、ソンリェンが急に立ちあがった。 「おいさっさと立って、落ちたもん拾え。帰るぞ」 「……どこ、に」  トイに帰れる場所なんてどこにもない。ソンリェンはトイの哀れな問いに一瞬だけ足を止めたが、トイを一瞥することはなかった。 「お前の部屋だろうが」  ぼんやりと見上げたソンリェンの服が、水に濡れて背中に張り付いてしまっている。トイの前髪も水が滴っている。今更ながらにびしょ濡れになってしまった。  拾え、とトイに命じておきながらソンリェンは先に散らばった林檎を拾い始めた。トイにその手が差し伸べられることはない。緩慢な動作で起き上がる。陽の光が眩しくて、腫れた目尻に染みて痛かった。 「帰ったら、ヤるぞ」  改めてわかりきったことを告げられても、失笑さえ零れてこない。無造作に紙袋に詰められた林檎はソンリェンが持っていた。  そして残りの食材をソンリェンが拾う気配はない。這い蹲りながらのろのろとそれらをかき集めて袋に入れて、立ち上がる。ソンリェンはさっさと元来た道を戻り始めていた。  水の中から、悪鬼の如き力で引きずり戻されて怒鳴られた。あんな風に切羽詰まった声を張り上げるソンリェンを見たのは、初めてだった。  湿った服と泥にまみれた靴が重い。  小さくなり始めた背中を、トイはよたよたとした足取りで追いかけた。  今から自室へ戻り、前を歩く青年に犯されるために。

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