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綺麗な月──36.
ぼーっとしていて、声をかけられたのは4度目だった。
わかってはいるけれども、気が付けばトイはぼんやりと窓の外の空を眺めてしまっていた。いつもより多い雲の隙間から覗く青に、あの鋭い瞳を思い出してしまいふるふると首を振る。
「とい、トイ?」
「わっ……あ、シスター」
「どうしたの、今日はずっとぼーっとしてるわね」
これで5度目だ。微笑みながら優しく顔を覗き込んでくるシスターの顔と、トイを苛むだけのあの仏頂面がブレてしまい、トイは流石に泣きたくなって頭を抱えた。
ディアナと彼が被ったことはあるが、なぜよりよってシスターとも。似てるところなんて全くないはずなのに。
「う~~」
「ど、どうしたのトイ、お腹痛いの?」
どうしたもこうも、今日はずっとこればかりだ。
頭の中を占めているのは、一昨日トイにあまりにも衝撃的な台詞を言ってのけた青年のことだ。
結局何も言わずに部屋を後にしたソンリェンは、去り際に一瞬だけトイの後ろ髪に触れた、のだと思う。身体も瞼も重くて思考も虚ろで、反応することはできなかったけど。
昨日、ソンリェンはトイの自室に来なかった。
「違う、なんでもない……大丈夫」
「本当? 何か悩みでもあるの?」
悩み。この二日間ずっとトイの脳内を占めている出来事を誰かに話すことが出来れば、少しはこの鬱々とした気分の悪さを消化することができるのだろうか。
幸いシスターは、トイよりも大人で知識も良識もある人間だ。
「なあ、シスター……」
「なにかしら」
「かわいいって、なに」
「え?」
シスターがきょとん、と首を傾げたので失敗したと思った。かわいいなんて単語、誰に聞かなくとも意味なんてわかる。これでは本当のお子様みたいだ。けれども一度口にしてしまったことは引っ込められない。
トイが知りたいと思っているのはかわいいという単語の意味ではなく、人が誰かをかわいいと称し発言するその意図だ。
「かわいいって、なんだ」
「誰かに言われたの?」
「そういうんじゃ、ねえけどさ……」
本当は言われた。けれども真実を口にすればトイの置かれている今の状況がバレてしまうような気がしてあえて濁す。シスターにだけはトイが男たちの欲求を吐き出すために使用される穴として生きているという事実は知られたくない。
「そうねえ、可愛い……トイは、誰かを可愛いと思ったことはある?」
「あ、る。シスターのこと、かわいいって思ってる」
「あら、嬉しい」
シスターは今年で35歳らしいけど、いつも可愛い。声も笑顔も動作も。
彼女に助け出されて目が覚めた時初めて視界に入ってきたのがシスターの顔だった。トイが目を開けたのを確認して、不安そうに揺れていた顔がくしゃりと歪められ泣き笑いになった。もう大丈夫よ、とやんわりと頬に添えられた指が温かくて、初めて見る人だったのにあまり恐怖を感じなかった。
育児院に連れてこられた時の記憶はないし、身体のあちこちが痛くて動けなかったけれども、シスターの顔を見上げながら心が落ち着いたのを覚えている。
シスターは誰にでも優しくてふわふわしている。空に浮かぶ雲みたいに。と、そこまで考えてあの甘くて美味しいふわがしを思い出し、芋づる式に一昨日のソンリェンとの激しい情交を思い出してまたぐるぐるしてきた。
身体がぐちゃぐちゃになって、痛くて甘くて怖くて苦しくて恥ずかしくて、わけがわからなくて泣くことしかできなかった。
動揺する気持ちを落ち着けるためにぱん、と頬を叩いてみるがあまり変わらず、だめよ、とシスターに諫められただけだった。
「あとは?」
「あと? あとは……ここにいる子どもたちとか、ディアナとか」
「……そうねえ」
シスターの目が細められる。
「可愛いと思ってる人には、優しくしたくなるわよね」
「え? えと……うん」
「つまりそういうことだと思うのよ」
「……えーと」
そっとシスターがトイの頬に触れてきた。温もりに満ちた手のひらに自然と頬を寄せる。シスターの目がもっと嬉しそうに緩んだ。
いつもシスターはトイに触る時にこんな顔をする。頭を撫でてくれたり、背中を撫でてくれる時だ。
初めの頃は触られるたび現実と過去の記憶が曖昧になって、半狂乱にすらなっていたのだからこうしてトイが怯えなくなったことに彼女は安堵しているのかもしれない。
後ろから急に触れられると今でも身体が固くなってしまうが、シスターはトイを落ち着かせるために必ず目を見てから手を伸ばしてくれる。
シスターときちんと会話ができるようになるまで1ヶ月。子どもたちに触れられても硬直しなくなるまで2ヶ月。シスターに頭を撫でられても体が震えなくなるまで3ヶ月。トイが、子供たちに自分から触れられるようになるまで、4ヶ月。
1ヶ月ごとに、トイはここの人たちに救われてきた。
みんなに恩返しがしたくて焦るトイに、ゆっくりでいいのよとシスターはいつも言ってくれた。
何よりシスターと自然に触れ合えるようになれたこと、そしてシスターを安心させてあげることが出来るようになったことが、トイには嬉しかった。
「可愛い人とは、これからもずっと一緒にいたくならない?」
「ずっと一緒に?」
「そう、ずっと一緒に。私、トイがとってもとっても可愛いから優しくしたいしずっと一緒にいたいわ」
他の子どもたちが聞いていたら嫉妬しそうなことをさらりと言われて、トイは狼狽えた。
「シスター」
「貴方と、ずっと一緒にいたいわ。トイは?」
シスターの言葉には常に迷いがない。迷うことは、子どもたちやトイを迷わせるということをわかっているからなのだろう。
私利私欲を考えず、たった一人でここを開き切り盛りしているシスターはとても強い人だった。
例えば、子どもの誰かがここを離れたいと望んだのなら、彼女は無理に引き留めたりしないだろう。むしろ独り立ちを支えるために奔走するに違いない。
シスターの言うずっと一緒にいたいとは、決して彼女の欲を満たすためのものじゃない。変わらないことだけを望んでいるわけじゃない。誰よりも子どもたちやトイのことを考えてくれているからこそだ。
それがわかっているからこそ、シスターの一言は心の中にストンと落ちて来た。
「……オレも、シスターと、みんなと一緒にいたい」
「あら、両想いだったのね」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じたシスターにトイも笑みを浮かべた。
「可愛い人とは一緒にいたいし、優しくしたくなるものよ。そういうのは全部、一つの感情から派生してくるものなんじゃないかしら」
「ひとつの、感情?」
「そう、一つの感情」
するりと離れていった細い指に、抱えていたもやもやが吸い込まれていくようだった。
「その人のことが、愛おしいって気持ちよ」
「……いとお、しい」
いとおしい、もう一度口の中だけで呟いてみる。
かわいい、は、いとおしい。そうなのかもしれない。
でも、と思案する。例えばそれが道端に生えている花だったらどうだろうか。シスターのそれは相手が人間であることが前提の話だ。花をかわいいとは思っても、花に優しくしたい、ずっと一緒にいたいとは思わないだろう。
かわいいと思って花を手折り手元に置けばいつかは枯れてしまう。この場合で言うところのかわいいとは、愛玩的な意味でのかわいい、になるはずだ。
愛おしいとは違う。無邪気さ故に一方的だ。
ソンリェンという人間にとって、トイは人間ではない。ましてや花でもない。だから彼の言うかわいいは、いとおしいなどという崇高なものではない。無邪気さ故の愛玩でもない。ただの気まぐれのはずだ、どちらかというとそっちの方がしっくりくる。
気まぐれは続かない。手折った花が枯れれば腐り、臭いに耐え切れず捨てるだけだ。ボロボロになったトイなど最初からいなかったかのように。
壊されたトイなどどうでもいいことのように、扉を閉めて出て行った4人の男たちの記憶が開かれそうになって慌てて押し込める。
皿を洗っているシスターに気づかれぬよう、どくどくと血流を乱す心臓を押さえつける。
「お皿、拭くよ」
「ありがとう」
ソンリェンという青年は恐ろしい男だ。それはこれからも変わらない。
トイは彼の顔を思考の外へと追い出すために、使い古された皿の水気を丁寧にふき取ることに集中した。
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