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綺麗な月──37.
鍵があるのに、なぜこの男はトイに開けさせたがるのだろうか。
今日は夕方になってもトーマがトイから離れようとしなかったため、帰宅出来たのは皆で夕飯を囲み少しだけ腹に収めてからだった。
気づけばいつもソンリェンが来訪してくる時間は既に過ぎ、もしも待たせていたらどうしよう、と駆け足で帰ってきても部屋に明りは点いていなかった。
だから昨日と同じく今日も来ないのだろうと、安心していたのだけれども。
「おい、今から部屋ん中で突っ込まれるか、外に行くか選べ」
「え……と」
ガンガンと足で催促され、来たのか、と青白い顔で扉を開けば開口一番早口で捲し立てられて、トイは面食らった。
とても一昨日トイに、『かわいい』などとのたまわった人間と同一人物には見えなかった。
「あの……は、はいんねえ、の?」
「話聞いてねえのかてめえは、さっさと答えろ。二択だ」
二択、というのは部屋の中で犯されるか外で犯されるかの二つだろうか。答えるまでもないという事にこの人は気づかないのか。
「おい」
「へ、部屋の、中、がいい」
「あ?」
「そ、外では、し、したくねえもん……」
命令されれば断る術はないが、できることなら絶対にしたくない。
「バカが。そういう意味じゃねえよ」
心底バカにされるように見下されても理解できないものは理解できない。ソンリェンは自分の物差しでしかトイを図らない。だからソンリェンと少し会話をするだけでいつも酷く疲れるのだ。
「ど、どういう意味」
「外ではヤんねえよ」
ふいと外された視線はすぐに戻り、例のごとく苛立っているらしいソンリェンに睨み付けられる。
おど、とトイが視線を彷徨わせるとがん! と扉を拳で叩かれて、目線をソンリェンに固定される。自分は逸らすくせにトイがそれをやるのは許さないらしい。
「ヤんのか、ヤんねえのか、どっちだ」
傲慢な理不尽さに嫌になる。そういう質問だったら先に言ってほしい。しかしソンリェンに意を唱えることなどできず、さらにはそんな2択先ほどと同様に聞かれるまでもないので、トイは押し付けられた袋をぎゅっと握りしめ、震える声で答えた。
「そと……」
「行くぞ」
くるりと背を向けたソンリェンはスタスタと歩いてしまった。
「はやく来い」
ついて来いと、いうことか。ちらりと視線を投げつけられ、ソンリェンに手渡された袋を抱えたまま急いで後を追う。
「そんりぇん、どこ行くの」
予想はしていたが答えはない。諦めながら早いペースで歩を進めるソンリェンの背を追いかけ、数歩離れた距離をキープする。
夜なのでもちろん辺りは薄暗く、ソンリェンが小道を進んで行けば行くほど街灯も無くなっていく。月明かりすら、雲に隠れて足元を照らしてくれない。
だんだんと、冷や汗が流れて来た。
こうしてトイも歩いたことのない人通りの少ない小道を歩いているのだ、もしもソンリェンが目指す暗闇の先に彼の友人たちが待ち受けていたらどうしようと恐ろしい想像が浮かんでくる。
あの黒い車が、トイを手ぐすね引いて待っていたら。
ありえないことではないのだ。
あのソンリェンがトイにまだ飽きていないから遊ぶ、と明言してきたのだ。残りの彼らも同じ考えを抱いている危険性も、ないとは言い切れない。
拳を握りしめて、ソンリェンの後を追い続ける。
かなりゆるい坂を登った気がする。小道を曲がれば、木々が生い茂る場所からそこまで綺麗に舗装されているわけではない階段が見えた。結構な長さだ。黙々とソンリェンが階段を昇り始める。
トイが秘密の場所へソンリェンを連れて言った時、彼は道無き道にだいぶ息を乱していた。こんな長い階段を自ら率先して上がっていくようなタイプには見えないのに。
階段の先には何が待っているのだろうか。
もしもトイに飽きて、自身の悪行諸共トイの命を奪おうと画策しているのだったとしたら。
人気のない丘の上でトイを殺すつもりなら。トイが殺されたことを育児院のみんなが知ったら。
ディアナも、アンソニーも、メアリーも、トーマも、アンナも、ユリアも、ルーシーも、シスターも。他の子どもたちも傷つけてしまう。どうしよう。
最悪の事態を考えている間に階段が終わり、視界が開けた。
トイの前を行くソンリェンがくるりと振り向き、来いと口だけでトイを促してくる。
いっそのこと暗闇に慣れなくて指示が見えなかったとこの場から逃げてしまおうか。しかしそんなことをすればソンリェンはトイ以外の人達に危害を加える。いつかの彼の言葉通り。
どうしよう。震える足でソンリェンの側に近づく。
ぐいと腕を引かれて、雑木林の中の茂みのさらに奥へと連れて行かれた。
頬に当たる葉が途絶えたところで、ぐんと、ソンリェンに背を押される。
開けた場所につんのめるように転がり出る。おそるおそる顔を上げる。
そして、そこに広がった空間に瞬きすら忘れた。
「わ……」
丘の上を目指していたのだとは思っていたが、想像よりもはるかに高い所だった。
トイの目線の下で、遠い街が宝石のように輝いていた。
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