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綺麗な月──38.

 トイの住んでいる所は立地が低く、郊外な上に貧民街に近い場所だった。  だからここまで灯りが広がる街並みは初めて見た。こんな端の場所から、遠く離れた世界を一望できるだなんて知らなかった。 「おい」  いつのまにか、隣にソンリェンが立っていた。 「お前知ってたか」  この場所を、ということだろうか。  知らない、と首を振れば、ふんとつまらそうな表情のままソンリェンはジャケットの懐から取り出した煙草の箱から、とん、と一本を引き出しかちりと火をつけた。  ライターに炙られた煙草の先がじわりと燃えて、じりじりと闇夜の中で温度の高そうな朱色が揺蕩う。  ソンリェンは何も言わずにトイと同じ先を眺めていた。相も変わらずどうでもよさそうに。  今から隣にいるトイをどうこうしようとしている気配も感じられなかった。ただ黙々と煙草を吸ってはふかしている。景色を楽しんでいるようにはとても見えない。  はたと、ありえないことを想像する。  もしかしてソンリェンは、この街並みを見せるためにトイをここに連れて来たのだろうか。 「なんだ」  トイの視線に気が付いたソンリェンから慌てて目を逸らし、眼前に広がる世界をじっと眺める。美しい夜景を堪能するわけではなく、ソンリェンに向けていた視線を誤魔化すために。  ソンリェンとの沈黙は痛い。傍にいるだけで常に身体がガチガチに緊張してしまう。ただそこに眺めるものがあるだけで、少しは重い空気が軽くなったような気もする。  ソンリェンは動かない。だからトイも動かない。出来ることならこのまま何もせずここでずっと景色を眺めていたかった。部屋に戻れば、ソンリェンはいつも通りトイの身体を暴くだろうから。 『可愛い人とは、これからもずっと一緒にいたくならない?』  昼間のシスターの台詞が甦ってくる。  ソンリェンは、こうしてトイと二人で並んだままここにいることに不快感は抱いていないのだろうか。  強い風が吹いた。夜の空を覆っていた黒い雲がだんだんと風に流されて、僅かな月明りが差し込んでくる。空が高いせいか、ぽつぽつとした地上の灯りとはまた違うそれは、やけに明るく見えた。  長い雲が切れ、丸みを帯びた月の全貌が浮かびあがる。どうりで明るいはずだ、今日は満月だったらしい。はあ、と人知れず感嘆が零れる。 「月、大きい……キレイ」  呟いた台詞はただ綺麗な月に感動したからのことであって、特に深い意味はなかった。  けれどもソンリェンはトイの台詞のどこに驚いたのか、弾かれたように身体ごとトイを見降ろしてきた。その勢いにトイも驚く。 「え、な、に……」 「お前」  彼の強い光を称えた瞳に見たこともない恐怖を感じて、じりと後ずさる。ソンリェンもそれに合わせてにじり寄ってくる。 「お前、それわかって言ってんのか」  別に身を乗り出されているわけでもないのに威圧感が凄まじい。ふるふると首を振る。 「なにを……オレ、なんか変なこと」  もしかしてソンリェンは月を褒められることを嫌うのだろうか。  それか、月をキレイだとのたまう安っぽい人間が嫌いだとか。  そうであったら彼の地雷を踏み抜いてしまったことになる。 「あの、ソンリェン……オレ」  謝ればいいのかわからずおろおろしていると、じっとトイを見降ろしていたソンリェンがくるりと背を向け頭を乱雑に掻き、短くため息をついた。 「別に、てめえがガキだってことを再確認しただけだ」  彼は煙草を唇の端に咥えたままポケットに両手を突っ込んだ。どちらかというと不貞腐れているようにも見えた。 「……綺麗に見えんのか、あれが」 「う、うん……だって、満月だしさ」  それ以上会話が続かない。ソンリェンは何を考えているのか、トイに背を向けたまま沈黙してしまった。煙草もただ咥えているだけのようだ。  空気が、再び重いものに変わってしまった。  トイはいたたまれなくなって、今日初めてソンリェンに自分から話かけた。 「そ、そんりぇんは」  声をかけても、ソンリェンは此方を見ない。 「キレイだって、思わ、ねえの?」  ぴくりと、ソンリェンの肩が揺れた。月明りに似た金色の髪が、闇夜に震えた。 「そうだな」  ゆっくりと、ソンリェンがトイを振り向いた。整った横顔が月明りに照らされて、やけに透明に見えた。 「死んでもいい」 「──え」 「……死んでも、いいな」  しんと張りつめた空気にトイは硬直した。  いつのまにか身体全体をトイに向けていたソンリェンから半歩後ずさる。こちらをじっと見つめてくる瞳は嘲笑に歪められてもいない。真っすぐに引き結ばれた唇に彼の本気を感じて青ざめる。 「トイ」  ソンリェンが静かに手を伸ばしてきた。  死んでもいい、それは紛れもなくトイの質問に対する答えだろう。そうだ、ソンリェンにとってトイは簡単に手折れる玩具なのだ。トイには今はっきりと聞こえた。  ソンリェンがトイに、そろそろ死んでもいいぞと死刑宣告を下したのを。  がくりと膝が笑う。崩れ落ちるように一歩どころか二歩後ずされば崖に足を取られそうになった。 「おい、あぶねえだろうが!」  しかし駆け寄ってきたソンリェンに腰を支えられて落ちずに済んだ。今助けられたとしても依然として死は目の前にあるというのに。  すっかり紫色に変色した唇を噛みしめる。どうしてここに連れて来られた意味を勘違いしてしまったのだろうか。愚かにもほどがある。トイは自分の浅はかさに泣きそうになった。 「お、おれ」  トイはここで殺されるのだ。こんな誰もいない静かな場所で。 「ソンリェン……オレ」 「……? おい」  いざその時が来たら逃げてしまおうとさえ考えていた。けれども自分でも驚くぐらい足が動かない。ロイズに、もう飽きたから今から君を壊しますねと笑顔で宣言された時と同様の状態だった。  息をするのも苦しくて視界がぼやけてくる。  抵抗することも忘れて、どんな恐ろしいやり方で命を奪われるのかそんなことばかり考えてしまう。持っていた袋をぐしゃりと握りしめる。 「オレ、を……殺す、の」  薄く開かれたソンリェンの唇から、煙草がぽとりと落ちた。

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