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綺麗な月──39.
てっきり残酷な笑みを浮かべたまま取り出したナイフでめった刺しにでもされてしまうのかと思っていたのに、ソンリェンはトイの発言の意図が掴めないのか、怪訝そうに眉間に皺を寄せて押し黙った。
しかし徐々に答えに辿り着いたのだろう、僅かばかり目を見開き──彼の端正な表情は、一瞬にして怒りに染まった。
「てめえは……!」
「ひっ」
掴まれていた腕に、ぎりぎりと圧力を掛けられる。骨を砕かれてしまいそうな勢いだった。
「マジでむかつく野郎だな! 調子乗ってんじゃねえぞ!」
「……っや、は、はな」
「うるせえ黙れ!」
あまりのソンリェンの剣幕に、手にしていた紙袋を落としてしまう。
「突っ込まれるしか価値のねえ玩具のくせに俺の許可なく口開いてんじゃねえ! 本当に今ここでヤリ殺されてえか!」
「──っ」
空気が割れんばかりの怒声だった。
ここまでソンリェンが、怒りに任せて怒鳴ったことがあっただろうか。水辺に連れて行った時の切羽詰まったような一喝ともまた違う。爛々と燃える瞳には憤怒が見えた。息もつけないほどの罵声にトイはぱくぱくと口を震わせて、何も言えずに視線を逸らす。
怒りのためか頬を蒸気させたソンリェンが、髪を苛立たしげにがしがしと掻きむしり、それでも怒りが収まらないのか足元に落ちた煙草をだん、と踏みつけた。
「クソ!」
「ご、ごめん、ごめんなさい……っ」
勢いが恐ろしくて腕で顔を隠してしまう。口を開くなと言われたがこればかりは謝らずにはいられなかった。何が何だかわからないが怒らせてしまったようだった。本当に殺すぞ、ということはもしかして殺すつもりはなかったのかもしれない。
それなのにトイが勘違いをして勝手に怯えたものだからソンリェンはキレたのだ。
どうしていつもこうなってしまうのだろう。トイはソンリェンの意思をいつもうまく汲み取ることができない。もっとトイが上手にソンリェンと会話することが出来ればこうして怒鳴りつけられることもないだろうに。ソンリェンを前にすると恐ろしくて舌が回らず、吃ってしまう。
「う……、ごめんな、さい、ぅ、」
情けなくて視界が緩んでくる。最後にもう一度派手な舌打ちをされて、トイは可哀想なくらいにびくりと怯えた。
「顔上げろ」
「……ごめ、ごめんな、さい……ごめん」
「上げろ、トイ」
散々叫んだ結果、ソンリェンも少しは落ち着いたらしい。
震える腕を捕らえられ顔を覗かれる。つい先ほどまで爆発的な熱を帯びていた瞳は峠を越えたように静かになっていた。眉間の皺はいつもよりも多いが。
ゆっくりと、男にしては白くそれでいて無骨な指先が近づいてくる。トイの頬に触れるか触れまいかのところで冷気が伝わってきてびくりと震えてしまう。
「ひ」
トイのか細い悲鳴に、いつもは容赦なくトイを蹂躙する指先が一瞬だけ止まった。
その動きを呆然と目線だけで追っていたトイは、小さく揺れるソンリェンの瞳に気が付かなかった。
そろりと指先が顎にかかった。腰を引かれ、いつものように近づいてきた唇に唇を食まれる。直ぐに侵入してきた舌を拒むなんて恐ろしいことはできなくて、自ら口を開いて迎え入れる。
「ん……」
だんだんと、いつも以上に口づけが激しくなってきた。ねっとりと舌を絡められて力が抜け身体が仰け反っていく。
背中から固い地面に背中を打ち付けてしまいそうになって、ソンリェンの胸に縋り付いた。腰を支えられる手に力が込められる。
「はっ……ふぁ、ん、んぅ」
顎を掴んでいた手で、頭を後ろから掬われるように抱き込まれ歯を一本一本丹念に舐めしゃぶられる。舌の裏側をくすぐるように弄られたら一旦離れ、透明な糸が舌先から何本も伸びては、また絡められて口の端から端までを塞がれる。
零れる唾液のせいで口の端が濡れていく。
「ん、ん……は、ん」
うねる舌は、トイの唇を心ゆくまで堪能して離れていった。
「泣いてんじゃねえよ」
涙が溢れる目じりにちゅと口づけられ、丹念に舌で雫を掬い取られる。
首を竦ませると額と額をくっつけられた。さらりとかかってくる髪がくすぐったい。
あまりにも近くにソンリェンの顔があって、痺れるような熱が額を通して伝わってきた。
「……お前は、怯えてばっかだな」
それは独り言のようにも聞こえた。
暗闇の中でも圧倒的な存在感を放つソンリェンの青い瞳に吸い込まれてしまいそうで、トイは何も言うことができず視線を逸らしてしまった。
視界の端に地面に落としてしまった紙袋が映りこんでくる。袋の中から零れていたのはいつものサンドイッチと、布に包まれた丸くて柔らかなものだ。見覚えがある。
きっと一昨日ソンリェンが買ってきたお菓子だ。
沈黙は長く続いた。トイはソンリェンと目を合わせられなかった。ふと額から熱が消える。
顔を上げればソンリェンはすでに身体の向きを変えていた。
「やってられっか、俺は帰る。てめえもさっさと帰れ」
言外に今日はトイの自宅には戻らないと言われて戸惑った。ソンリェンはトイの動揺を無視してさっさと歩いていってしまった。本当に一人で帰るようだ。
やっと緊張から解放されて、去っていく後ろ姿にほお……っと安堵する。ソンリェンの足がぴたりと止まった。
まだ何かあるのかと身構えたが、ソンリェンは此方に向き直ることもなく肩を震わせて、笑った。
「あからさまに嬉しそうな顔してんじゃねえよ、バカが」
なぜバレたのか。
「は、てめぇの考えてることなんざ御見通しなんだよ、どうせ今だって……」
ソンリェンが顔を俯かせたため、彼の項が月明りに濡れて光った。細い首筋にトイは息を飲んだ。何故か広いはずの背中が小さく見えた。
ソンリェンは小さく舌打ちをすると、それ以上何を言うこともなく身を翻して本当に去ってしまった。
彼の姿が完全に闇夜に消えるまでトイは動けなかった。
かくかくと膝の震えが大きくなり、耐えきれずぺたんと地面に座り込む。土に両手を付いて身体の力を抜いていく。やっとまともに息が吸えた。ソンリェンの残り香が鼻を掠める。
本当に殺されるかと思った。未だ心臓が激しく脈打っている。
細かい道ではあったが道順としてはさほど複雑ではなかった。このまま一人で帰ることはできる。それにソンリェンが明言した通り、彼は今日トイの自室には戻ってこないだろう。なぜだかそんな確信があった。
二人分の唾液に濡れた口を拭いながら、トイは頭上に丸くそびえる月を見上げた。
しんと静まり返った世界に浮かび上がる満月は、やはり透き通るように綺麗だった。
ソンリェンのさらさらとなびく髪の色に、どこか似ている。
そういえば、屋敷に閉じ込められていた時に、部屋に備え付けられていた本棚に適当に詰め込まれていた古くて黄ばんだ詩集や小説、勉強の本などによく目を通していた。
許可もなく部屋の外に出れば何をされるかわからない。男達に玩具にされる日々の中、トイは自分の精神の安寧を少しでも保つため、空いている時間を見つけては文字の練習をしていた。
文字を覚えるために何度か書き写したりもした。それはトイにとって多少の慰めにはなったのだが、確かその中の短編集のようなものに、一組の男女が月を見上げているシーンがあった。
さっきは怯えすぎて思い出す暇もなかったが、印象深い一節だった。
『月が、とても綺麗ですね』
『そうですね、死にたくなるほどに』
主人公の放った一言に、同じ月を見上げていた人物はそう答えた。なんて不思議な返答だろうと思ったものだ。あの台詞に込められた意味は、一体何だったのだろう。
──わからない。ソンリェンがトイに何を求めていたのか。
未だにソンリェンの体温が残る額を擦る。
どうして彼はまたあのお菓子を買ってきたのだろうとか、考えることは沢山あったが、今は。
立ち上がれるようになるまで、もう少し時間がかかりそうだった。
トイの心を置き去りにしたまま、夜が更けようとしていた。
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