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過去──62.

 トイは壊れた。無残な姿で。  最後にトイを壊した日のことを、ソンリェンはよく覚えていた。予想した通り雨の日だった。  覚えていたというよりも思い出したと言うべきだろうか。  それとも事が過ぎ去ってから、あの時壊したトイの無残な肢体を思い出すたびに自分の行った行為の一つ一つが脳裏に蘇っては夢見が悪くなる、と言った方が正しいのだろうか。   どれであったとしても、救いようがないことには変わりはない。  トイが泣く。トイが、ほっとする。トイが吐く。トイが痛がる。トイが喘ぐ。トイが絶叫する。トイが痙攣する。トイが許してと泣く。トイの呼吸が、短くなる。トイが動かなくなる。トイの夕暮れ色の瞳が、星の見えない夜になる。  ──トイが泣く。トイが。 「……くそ」  今日はいつにもまして夢見が悪かった。最悪の目覚めだった。  寝汗をたっぷりとかいていた。起き上がり前髪をくしゃりと搔き上げれば額まで湿っていた。  静かに息を吸って、辺りを見回す。  大きな窓から差し込む緩い光に目を細める。朝だった。  学院を途中で辞め、学生時代を過ごしたあの屋敷を出て生まれ育った屋敷に戻って父親から事業を引き継ぐ準備を初めて、もう4ヶ月目だ。  日々は目まぐるしく移ろう。急激にこれまで以上の知識を詰め込んでいるので覚えることも多くある。こうして休んでいる時間も惜しいくらいだ。  現に今とて仕事部屋のデスクの上で目が覚めた。どうやら今夜はここで寝てしまったようだった。無理な体勢で長時間睡眠を取っていたため、背中の痛みが酷い。 「失礼します、ソンリェン様」  丁度いいタイミングで扉を叩いてきた使用人に入るように促す。  朝食にはまだ早い。取り敢えず寝覚めのコーヒーでも持ってきてくれたのかと予想するが外れた。だが外れてよかった。 「なんだ」 「子どもの居場所を見つけました」 「──あ?」  それはコーヒーよりも、望んでいた情報だった。  そして聞き間違いだと思った。思わず書類片手に硬直してしまうほどに動揺した。  使用人のいう子どもというのは一人しかいない。ソンリェンが探せと指示を出していた対象だ。  だがあまりにも唐突過ぎて現実味がなかった。  だから、取り敢えず一番重要なことだけを確認した。 「生きてんのか」 「はい」  あまりにも簡単な返答だったがソンリェンにとってはとてつもなく大きな一言だった。  どっと、体から力が抜けた。  書類をデスクに戻して、額に組んだ手を押し付けて暫く目を閉じる。  写真を渡しているので間違いはないはずだ。ここまで月日が経ってしまったので、遺体が埋葬されている場所を見つけましたと報告を受けるばかりだと思っていたのに。  生きていた。トイが、生きている。  殺してなかった。 「なん……で、生きてんだ」  あの状態で。額に押し付けた手は震えていた。 「拾われたようです、育児院のシスターに。そこで手厚い看護を受けたと」 「育児院は探した、教会も」 「無認可の個人経営でした。しかも違う地区の、貧しい場所です」 「どこだ」 「ローランズのテレアスター育児院です。その日たまたま、スラムを通ったようで」  聞いたこともない育児院だ。もちろん探したこともない。どうりで見つからないはずだ。  そうか、そこにいるのか。 「そうか」  そうか、と。もう一度胸の中で呟いて顔を上げた。  ほぼ11ヶ月の捜索は長かった。表情の乏しい使用人でよかった、そうでなければソンリェンこそ狼狽えていたに違いない。  彼の真顔のお陰で幾分か冷静に今後のことを考えることができた。  まず、予定は全て明日に回し、今日中にそこの育児院に行く。逃げられる可能性も考えて事前に連絡はしない。そこで対象がトイ本人であることを確認できたら。  トイを見つけたら。見つけたら。  ──どうすればいいのだろうか。探すことばかりに集中していて肝心のその先を考えていなかった。  接触、できるのだろうか。話しかけられるのだろうか。そもそもトイと普通の会話というものを、することはできるのだろうか。  そして、どんな顔をしてトイの前に現れるべきなのか。  1週間目に、違和感に気づいた。ロイズたちが新しく攫ってきた玩具に、興奮できなかったことが発端だった。  2週間目に、苛立ちを感じた。  3週間目に、一向に治まらない苛立ちに腹が立ち過ぎて。  1ヶ月目に、他の誰を抱いても満たされない身体に、トイがいないことがどうしても不快なのだと気付いて。トイを捨てた屋敷の使用人に捨てた場所を聞いて、探し始めた。  自ら足を運んでの周辺への聞き込みなんて初めてした。トイが育ったスラムであればまだよかったものを、場所は全く違うスラム街だった。  トイを運び出した使用人は適当な場所に捨て置けと命じられていたので怒鳴ることも出来ない。家のためであれば使用人は簡単に人の心を消す。そういう風に教育されている。  また、その日にぽっと捨てられた子どもを見ず知らずの他人が知っているはずもない。ちらりとトイを見かけたが、遺棄された死体だと思って近づかなかったという孤児も数名いたようだ。  だがその後、それがどうなったのかは知らないという。1ヶ月前の出来事なので当たり前だ。  死して遺体が運び出されたのかも、生きてその場を離れたのかも、死にかけていたところを誰かに救われたのかも、何も判断できなかった。  いくら待っても何の情報も入って来なかった。家の者にも捜索を手伝わせたが、朗報はなかった。  そこから探し始めてさらに1ヶ月、トイに対して抱いている感情の形には気付き始めていた。ただ、あまりにも朧げな上にトイ本人が生きているかもわからない状況だったので、認めることが出来なかった。認めるわけにはいかなかった。  つまりは逃げたのだ。逃げるようにあの屋敷を出て、家の屋敷へ戻った。  また1ヶ月が経ち、学校を辞めて家の事業に足を突っ込み始めた。捨てたトイの捜索以外のことは何も考えられないように、身体と心が忙しさを欲していたのかも知れない。  さらに1ヶ月経ち、4ヶ月目になった。  そしてここでやっと、自分の気持ちと向き合った。というよりも認めた。トイに抱いている感情を自分自身の心に見せつけられて酷く鬱屈とした感情に苛まれた。自らの手で殺しておいて、と。  あの3人とも、顔を合わせることも難しくなり始めていた。彼らはすっかりトイのことなど忘れて、新しい玩具にのめり込んでいた。  ただ、予想以上にロイズが新しい玩具を独り占めしたがるらしく、みんなで愉しめる回数が減ったとエミーもレオも嘆いていた。一度だけ見かけたことがある。興が乗らなかったのでトイの時のように混ざらなかった最初の、集団での暴行時に。  トイとは趣の違う、鋭い瞳が印象的な手負いの獣のような子どもだった。様々な罵詈雑言が飛び出す口に、調教のし甲斐がありますねとロイズが一番喜んでいた。  5ヶ月目、6ヶ月目と、時間の許す限り思いつく限りのあらゆるところに足を運んだ。  それを繰り返し続けて、11ヶ月目。  季節はすっかり寒くなり、木々の葉に色が付きトイの瞳の色を思い出せる季節も過ぎた。今年は暖冬だったらしく世界の全てを白で覆い隠す冬は、割と直ぐに過ぎ去った。だが肌寒さの残るそんな時期。  日々暮れる空を窓から眺めては、茜色に光る世界にトイの瞳を思い出しながら。  ここまで来ても見つからない。あの子どもは既に死んでいるのだと、自分たちが殺したのだという事実認めざるを得なくなっていた、この日に。  トイを見つけた。

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