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過去──63.
「といー、追いかけっこして!」
「よーし、じゃあ10数えるからみんな逃げろよ、思いっきり追っかけるかんな」
「わー! トイが鬼だ!」
「あっ、庭の外には出ちゃだめだぞ、あと柵の上に昇るのもダメな」
「はあーい」
「とい、おれ、逃げるのやぁ」
「んー? そっか、じゃあトニーはオレと一緒にみんなを追いかけようぜ。一緒に10まで数えられるか?」
「うん、できーよ」
「じゃあいくぞ。せーのっ、いーち、にーい、さーん」
「ろー、……く?」
「ははっ、トニー抜けてる抜けてる」
トイよりもさらに幼い幼児の体を抱きよせ、二人で指折り秒を数えるトイの姿から目が逸らせなかった。
くしゃりと顔じゅうを皺だらけにして笑うトイの笑みというやつを、初めてみたのが再会したその日だった。
再会したと言っても、トイのいるという育児院まで赴き、聞き馴染んだ声が庭先から聞こえてきたため吸い寄せられるように柵の隙間から馴染みのない世界を覗けば、対して広くもない育児院の庭にトイがいたというだけのことではあるが。
子どもたちと遊びながら、トイは笑っていた。
この11ヵ月、想像してもし切れなかった眩しい笑みが柵の向こう側に広がっていた。
数を数え終わったのか、トイがトニーと呼ばれた幼子と走り出した。幼子に合わせるようにゆっくりと、しかし全体を見回し全員に配慮できるように、幼子を右に走らせ、自分は左へ。
きゃらきゃらと逃げ惑う子どもたちを本気で追いかけては、ぎりぎりのところで体に触れないように躱す。
わざと、やっているのだろう。子どもたちを楽しませるために。
トイの足は未だに細いが、速かった。俊敏な猫のように子どもたちの隙間を縫い、場を盛り上がらせる。長らく走って、そろそろだと思ったのか一番元気そうな子どもに目を付けてひょいと追い込み、うまく誘導して背後に控えさせていた先ほどの幼子に、トイが叫ぶ。
「トニー、そのままたっち!」
ぺたりと、小さな幼子に後ろから触れられた子どもは一瞬呆けてから、大声を上げて笑った。他の子どもたちも予想外の展開に盛り上がっている。
トイがトニーを軽々と抱え上げ、「トニーすごいぞ!」とくるくる回りながら褒め称えていた。
トイの腕の中でトニーという子どもは、褒められたことが嬉しいのかはにかむように笑った。ほんわりと愛おしそうな顔で、幼児に頬ずりをするトイを見ていられず、柵から一歩後ずさる。
大きな木々の影のお陰で此方の姿が彼らに見えていないことだけが救いだった。トイの周りに子どもたちが集まってくる。
あたしも抱っこしてと手を伸ばす子どもたちを抱きしめ、頭を撫でるトイの手のひらは丸くて小さい。あの頃のままだ。けれどもトイはこんなにも違う。いや、知らなかったトイを思い知らされた。
──あれは誰だ。
どくりと心臓が煩いくらいに鳴り響いた。
あれは誰だなんて、答えはわかりきっている。だからここに来たのだ。あれはトイだ、探し求めて来たトイだ。だがあんなトイは知らない。
見たこともないトイの姿だった。
当たり前だ、トイを外に出すことも、運動させることもせずに閉じ込めて遊んでいたのだから。
脱がしやすいよう薄い服を着続けさせ、好きな時に身体を開き淫らさを叩きつけ、教え込み、淫猥に喘がせていたのだから。玩具のようにいたぶっていたのだから。
体力もある方だとは思っていたが、あんなにも素早く動ける身体を持っていたとは知らなかった。
ああして子どもたちの中心に立ち、皆をうまく取りまとめ、慈しめるような人間だったのだということも知らなかった。
太陽の下で笑うのが誰よりも似合う人間だということも知らなかった。
トイの弾けるような笑顔があんなにも眩しいものだということも、何も。
見つけ出せた安堵を噛みしめる前に、酷い衝撃に撃ち抜かれた。
会えるわけがない、あんなトイには。拒絶されるだけだ。それ以外の道は考えられない。
ありえない。あんな、誰相手にも好かれるような人間性を持つトイが、ソンリェンのような歪みに満ちた男を受け入れられるはずがない。
世界が違う、真逆だ。支配から抜けだしていたトイは誰よりも明るく、生命力に満ちていた。これまで見て来た弱弱しい姿なんてトイの一部だ、トイは強かった。
後から知ったことがある。助けてと、書いた紙を、トイは隙を見て窓の外へと頻繁に投げていたという事実を。庭師はそのたびにそれを見つけ出しては、隠していたらしい。
金で雇われていた庭師の下っ端だった。トイとは一度だけ面識があった。
一度目の脱走の際、2階から落ち全身打撲で動けなかったトイを捕らえたのがその庭師の壮年男性だったのだ。
あの時、トイは木々や花壇のお陰で骨折などもせずに済んだ。トイは自分を見降ろしてくる庭師に、ぼんやりとした顔で言ったそうだ。
『花壇、ごめんな』と。
たった一言だったらしいが、庭師には大した衝撃をもたらした、らしい。トイの身体の下には、いくつかの花が潰れていた。
それ以降、庭師は隙を見ては、他の誰かがトイの投げた紙を拾う前にそれを回収し、燃やして隠滅していた。トイが外に救いを求めているということがソンリェンたちにバレないように。トイが手ひどく折檻されないように。
ただ家のことがあるので紙を外部へ持ち出すことも、脱走の手助けをすることもどうしても出来なかったと、血反吐を吐き捨てるように白状した。ソンリェンだけに。
一瞬だけ顔を見合わせた人間すらにも情を抱かせる子ども。
つまりそれは、トイ本人に大きな情そのものが備わっているというわけで。ソンリェンや他の3人が持ちえない、純度の高い心、というものを。
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