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亀裂──69.

「オレが生きようが死のうが、ソンリェンには関係ねえじゃんか!」  今のは言っては駄目な台詞だった。  ソンリェンの膨れ上がった怒気にトイは一瞬で後悔したが、もう遅かった。思ったことを直ぐ口にしてしまう自分の性格はなかなか直らない。  案の定先ほどの柔らかな雰囲気はどこへやら、ソンリェンの手を弾いてしまった腕を乱暴に掴まれて、路地裏に引きずり込まれた。 「何が関係ねえだ」  トイから奪った袋を床に放り投げたソンリェンに、手首をごと壁に押し付けられる。  さっきは優しく手のひらを握りしめてくれた手だというのに、今は痛みしか与えてくれない。 「お前の命は、俺のもンだっつっただろうが!」  久々の激しい怒りにびくりと身体を竦ませる。  ここ2週間ほど、ソンリェンの態度は殊更柔らかくなっていた。  トイに触れる指先が妙に優しくなった、と思う。  身体を暴かれる時の荒々しさはあれど、苦痛を与えられることも少なくなった。痛みを感じる前に激しく愛撫を施され身体を緩ませられて、悦楽を引きずり出されるのだ。  ただそれは今までのよう、に嗜虐心のままトイを嘲笑しいたぶるためのものではなく、快感によって痛みを緩和させるためのもの、のようだとも感じていた。  朝までベッドを共にしたあの日から、ソンリェンはトイの部屋を訪れた際には必ず同じベッドで寝た。日の出と共に部屋を出ていくまで。  朝早くに帰らなければならないのならトイを抱き潰した後にさっさと帰ってくれればいいのに、ソンリェンはそうしない。朝までトイを離してくれない。  そんな日々が続いたので、だんだんと、ソンリェンとまともな会話もできるようになっていた。  もちろん自分から話しかけるのではなく、ソンリェンに会話を振られた時にだけぼそぼそ受け答えするような関係だけれども。  だが先ほどのように、首にソンリェンの高そうなストールを巻き付けられたり、荷物を持たれたり、ましてや手を繋がれたりすると非常に動揺する。  恐怖とは違う感覚に戸惑うのだ。まるで身体を繋げる以外の繋がりを求められているのではと錯覚してしまう。ただの気まぐれなのに。  こんなことしないでほしいともやもやとした感情が膨れ上がり、『風邪でもひかれたら困るんだよ』と言われてしまえばもう抑えられなかった。  振り回されることに疲れていたのかもしれない。  好き勝手にトイを貪り倒すソンリェンがそれを言うのか、トイの気持ちなど一切考えずに行動するソンリェンがそれを言うのかと、明確な怒りがトイの中で弾けた。  そして、冒頭の台詞へと繋がってしまった。 「だ、って……でも、お、おれ」  だが溢れた怒りは一瞬だ。  というよりも燻る怒りはソンリェンの剣幕に負けて直ぐに押し込められてしまった。そして、口調もまたたどたどしいものへと戻ってしまう。  舌打ちしたソンリェンに、ぐいと顎を捕らえられ上を向かされる。慣れた仕草で重ねられる唇を受け入れる。  最近のソンリェンは、身体を組み敷いてくる時以外もキスをしてくる。トイがうまく喋れずにつっかえたり、どうしたらいいのかわからなくなって狼狽えたりしている時によくキスをされるのはトイのためというよりソンリェンのためでもありそうだった。  トイへの対応を掴みあぐねとりあえず唇を塞いでくる。そんな風に感じていた。 「ん、ふぁ……ま、まって……そんり、」 「煩え」 「でも、く、くるしっ、んっ……ん、ァ──んぅ」  顔を振って逃れようとしても舌は執拗だ。口の端から零れる唾液すらにも舌を這わせられ、再び深く重ねられて顔が仰け反る。もともとの身長差故に踵が浮く。 「腕、まわせ」  唇が離れ、命令が下される。これも、ここの所よく言いつけられる台詞だった。揺さぶられている時にシーツを掴んでいると、必ず腕を捕られてソンリェンの首に回される。  爪を立てないよう気を使わなければならないし、至近距離で快楽に喘ぐ顔をソンリェンに見られるのが嫌なのだが、やれと言われればはやらざるを得ない。 「こっちだ。掴まれ」 「ん、んっ──……」  腕を引っ張られソンリェンの首に腕を回す。  途端に味見でもするかのようにべろりと唇全体を舐めとられ、ぞくりと臀部から背中にかけて薄ら寒い快感がこみ上げてきた。つい腕に力を籠めてしまう。舌が深く入ってきた。  裏筋をゆるく舐めとられて、吐息が零れる。唾液を啜る音も舌を絡める音も苦手なはずなのに、耳に入ってくる濡れた音にじわりと体の奥に火が灯ってしまう。  唇を解放された時には身体の力が抜けていた。 「謝れよ」 「は、ふぁ……」 「今のはどう考えても、てめえが悪いだろうが」  いつもいつも、ソンリェンの中ではトイが悪い。たとえ客観的に見てトイが悪くなくともだ。  謝らなければ許してもらえない。 「ご、めん……」 「二度と、言うな。次言ったら殺すぞ……わかったな」  だが、物騒な物言いの中には確かな甘さがあった。もう、ソンリェンはさほど怒ってはいない。  薄っすらと目を開ければ幾分か落ち着いた青い瞳があった。そこには冷え冷えとした殺気や激しい怒りは込められていないようだ。  このまま怒りに任せて服を引き千切られることはなさそうだと、安心する。 「言え、てめえは誰のもンだ」 「そ……そんり、の」 「そうだ、お前は、俺のもンだろうが」  お決まりの台詞は、怒りが落ち着いたことの合図だ。観念してこくりと頷けば長い指先に前髪をずらされ、額や瞼、鼻の頭、そして頬に柔らかく唇を押し付けられる。  くすぐったさに首を竦ませると、ソンリェンに巻かれたストールが皮膚に当たり痒かった。けれども高級なものなのだろう、肌触りはとても心地いい。  ソンリェンの気のすむまで小さなキスを受け入れてはいるけれども、トイはソンリェンと一緒にいる間、ずっと考えていることがあった。  ソンリェンが部屋に来るたび、ソンリェンに裸に剝かれて身体を貫かれるたび、抱きしめられて眠るたび、こうしてキスをされるたび。  ソンリェンの腕に光るミサンガが目に痛くて、考えられずにはいられなくなるのだ。  もしかして今なら、ソンリェンとこういうことはしたくないと彼を拒んだとしても、ソンリェンは話を聞いてくれるのではないかと。  育児院の皆に危害を加えるという脅迫や、残りの3人にトイの居場所を話すという脅しを撤回してほしいと、今なら言えるのではないだろうかと。  だが口にする勇気はない。  もう部屋に来ないでほしい、解放してほしいと懇願した途端、これまでに比べれば緩やかになっていたソンリェンの目つきが一瞬にして1年前の時のようなものに戻ってしまったら。  目を合わせられることもなく頬を張られ、髪を鷲掴まれ頭を踏みつけられ、愛撫もされずに突き入れられて吐き出されでもしたら。今は凪いだ青空のように見える瞳が、冷たい氷のように細められたら──ぶるりと震える。  想像するだけで呼吸すらも凍りそうだった。 「さむ、い」  ──間違っている。正しいはずがない、こんな関係は間違っている。 「……帰るぞ、冷えてきた」  震えたトイの身体が風に冷えたと思ったのか、ソンリェンが落とした袋を拾い歩き始めた。  もちろん、トイの腕を強く掴んだまま。  今日の買い物は終わった。あとは帰路に着きそのままいつもの流れのようにソンリェンに激しく犯されるだけだ。吸われ過ぎた胸先が痺れ赤く腫れあがり、男性器を舐められ指で扱かれ、望んでいない快感を散々吐き出させられるだけ。  ソンリェンの性欲が治まるまで、へとへとになるまで喰らい尽くされるだけ。  ソンリェンに犯されるのが嫌だ。  弄ばれるのも嫌だ。好き勝手に蹂躙されるのも嫌だ。  中に吐き出されるのも嫌だ。穴として使用されるのも嫌だ。意思の無い玩具のように扱われるのも嫌だ。ソンリェンのものになるのも嫌だ、全部嫌だ。  ソンリェンにされること全てが、嫌だ。  いくらかわいいと囁かれたって、トイはソンリェンにとってもの以上でも以下でもない。トイはものではなく人間だ、人間として生きていきたい。  ではもしも、ソンリェンにものではなく人間として扱って貰えたら。  ふるりと首を振る。  そんなありえない彼の気まぐれを想像してしまう自分も、嫌だった。

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